今はまた散らでもまがふ時雨かな
ひとりふりゆく庭の松風
- 歌の意味
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今はまた、木の葉が散らなくても時雨と紛れる音があることよ。ひとり降るように鳴り、古りゆく庭の松に吹く風である。
- 鑑賞
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巻第六 冬歌 587
詞書「千五百番歌合に冬歌」
時雨を詠む一連の十八首目である。木の葉の散り尽くした今は、散る木の葉がなくとも時雨と紛れるものがあり、それはひとり古りゆく庭の松に吹く風であると詠む。詞書によれば、千五百番歌合で冬の歌として詠まれた歌である。
作者は源師光の子で、後鳥羽院宮内卿の兄にあたり、後鳥羽院の和歌所の寄人を務めた。
場面は木の葉の散り果てた冬、場所は松の立つ庭である。
直接の契機は、後鳥羽院が催した千五百番歌合での冬の歌の詠である。
初句「今はまた」は、木の葉の散り尽くした今はまた、の意である。
二句「散らでもまがふ」は、散らなくても紛れる、の意で、「で」は打消の接続助詞である。木の葉の散る頃にはその音が時雨と紛れたが、今は散る木の葉がなくても時雨と紛れるものがある、という。本巻の第五百六十首や第五百六十七首が詠んだ木の葉と時雨の紛れを踏まえた言い方である。
三句「時雨かな」は、詠嘆の終助詞「かな」で切れる三句切れである。
四句「ひとりふりゆく」の「ふり」には、時雨のように「降り」ゆく意と、松が年を経て「古り」ゆく意が掛けられている。「ひとり」は、木の葉の散った後に松だけが残るさまをいう。
結句「庭の松風」は体言止めで、時雨と紛れるものの正体を最後に明かす。松風の音を時雨の音と聞く趣向で、本巻の第五百七十三首が松の下露を時雨と見立てたのに対し、この歌は松風の音を時雨と聞いている。前歌の「ふり果てぬる」に続いて、「ふりゆく」の掛詞が置かれている。
まがふ:入り交じって見分けがつかなくなる
ふりゆく:時雨が降りゆく意と、年を経て古びてゆく意を掛ける
まつかぜ:松の梢を吹く風、またその音
- 作者
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源具親
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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