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今日来れどあやめも知らぬ袂かな
昔を恋ふるねのみかかりて

歌の意味
五月五日の今日が来たけれど、菖蒲も、物の見分けも知らない袂であることよ。菖蒲の根ではなく、昔を恋うて泣く声ばかりが掛かって。
鑑賞
巻第八 哀傷歌 770

詞書「嘆くこと侍りけるころ、五月五日、人のもとへ申し遣はしける」
 夏の景物に故人をしのぶ一連の三首目である。五月五日の今日が来ても、昔を恋うて泣く音ばかりが袂に掛かって、菖蒲の見分けもつかないと詠む。詞書によれば、嘆くことのあったころ、五月五日に人のもとへ贈った歌である。
 作者は平安時代後期の女房で、神祇伯源顕仲の娘であり、待賢門院、のち上西門院に仕えた。
 場面は五月五日の端午の節句、場所は記されていない。
 直接の契機は、嘆くことのあったころの五月五日に、人のもとへ歌を贈ったことである。
 五月五日の端午の節句には、邪気を払うために菖蒲を軒に葺き、薬玉を掛け、菖蒲の根の長さを競う根合わせも行われた。

 初句「今日来れど」は、五月五日の今日が来たけれど、の意である。「ど」は逆接で、節句の華やぎに対して沈んだ心を示す。
 二句「あやめも知らぬ」の「あやめ」は、端午の菖蒲の意と、物の筋目や分別をいう「文目」の意を掛ける掛詞である。涙に暮れて物の区別もつかない、の意となる。
 三句「袂かな」の「かな」は詠嘆で、ここで三句切れとなる。菖蒲を掛けるはずの袂が、涙に濡れていることを示す。
 四句「昔を恋ふる」は、過ぎ去った昔を恋い慕う、の意である。次歌の第七百七十一首も同じ「昔を恋ふる」の句を用いる。
 結句「ねのみかかりて」の「ね」は、菖蒲の「根」と、泣く「音」を掛ける掛詞である。菖蒲の根を袂に掛ける節句の習俗を踏まえ、掛かっているのは根ではなく泣く音ばかりだと言う。倒置によって、三句の「袂かな」の理由が結句に置かれている。前歌が菖蒲を植えた子の死を嘆いたのに続き、ここでは節句の菖蒲そのものを嘆きの言葉に取り込み、次歌の第七百七十一首、第七百七十二首の贈答へとつながる。

あやめ:端午の節句に用いる菖蒲の意と、物の筋目や分別の意の文目を掛ける
たもと:袖
こふ:恋い慕う
ね:菖蒲の根の意と、泣く声の意の音を掛ける
作者
上西門院兵衛
出典
新古今和歌集
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