ふるさとを恋ふる涙やひとり行く
友なき山の道芝の露
- 歌の意味
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ふるさとを恋い慕う涙なのであろうか。ひとりで行く、友もいない山の道端の芝草に置く露は。
- 鑑賞
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巻第八 哀傷歌 794
詞書「同行なりける人うち続きはかなくなりにければ、思ひ出でて詠める」
秋の景物に故人をしのぶ一連の二十首目である。ひとりで行く友もない山の道芝の露は、ふるさとを恋う涙なのであろうかと詠む。詞書によれば、共に仏道を修行していた人々が続けて亡くなったので、思い出して詠んだ歌である。
作者は関白藤原忠通の子で、天台座主を四度務め、歴史書『愚管抄』を著した。
場面は露の置くころ、場所は山の道である。
直接の契機は、共に修行した人々が続けて亡くなったことである。
初句「ふるさとを」の「ふるさと」は、以前に住み慣れた所をいう。
二句「恋ふる涙や」の「や」は疑問の係助詞で、結句の「道芝の露」を、ふるさとを恋う涙なのかと問う形になる。
三句「ひとり行く」は、一人で山道を行く、の意である。
四句「友なき山の」の「友なき」は、同行の人々を亡くして連れのない、の意である。詞書の「同行」を受ける。
結句「道芝の露」は体言止めである。「道芝」は道端に生える芝草で、その露を、ふるさとを恋う涙と見る。前歌の第七百九十三首が旅先で昔の人の形見の薄を見たのに続き、ここでも山の道をひとり行く旅の姿で死者を思う。本巻の第七百五十七首以来はかない命のたとえとされてきた露が、ここでは涙と見まがうものとして置かれる。
どうぎやう:共に仏道を修行する人
みちしば:道端に生える芝草
- 作者
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慈円
- 出典
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新古今和歌集
- その他の歌
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