憂き世には今はあらしの山風に
これや馴れゆく始めなるらん
- 歌の意味
-
つらいこの世にはもういるまいと思う今、吹きつける嵐の山風に、これが山の暮らしに馴れてゆく始めなのであろうか。
- 鑑賞
-
巻第八 哀傷歌 795
詞書「母の思ひに侍りける秋、法輪にこもりて、嵐のいたく吹きければ」
秋の景物に故人をしのぶ一連の二十一首目である。憂き世には今はいるまいと思う心に嵐の山風が吹き、これが山の暮らしに馴れてゆく始めなのであろうかと詠む。詞書によれば、母の喪に服していた秋、法輪寺にこもっていたところ、嵐がひどく吹いたので詠んだ歌である。
作者は権中納言藤原俊忠の子で、皇太后宮大夫を務め、『千載和歌集』を撰進した。藤原定家の父である。
場面は母の喪中の秋、場所は嵯峨の法輪寺である。
直接の契機は、母の喪に服して法輪寺にこもっていたとき、嵐がひどく吹いたことである。
法輪寺は嵯峨の嵐山にある寺である。
初句「憂き世には」は、つらいこの世には、の意である。
二句「今はあらしの」の「あらし」は、もういるまいの意の「あらじ」と、山から吹く「嵐」を掛ける掛詞である。母を失い、憂き世にはもういるまいと思う心が、法輪寺に吹く嵐と重なる。
三句「山風に」は、二句の「嵐」を受けて、山から吹き下ろす風をいう。
四句「これや馴れゆく」の「や」は疑問の係助詞で、結句の「らん」で結ばれる。「馴れゆく」は、山の暮らしに次第に馴れてゆく、の意である。
結句「始めなるらん」の「らん」は推量で、四句の「や」を受け、始めなのであろうか、と結ぶ。憂き世を離れて山に住む暮らしを思いながら、嵐の吹く寺で母の喪の秋を過ごす。本巻の第七百八十五首の詞書にも法輪寺が見え、嵯峨の地が再び舞台となる。次歌の第七百九十六首は松風を詠み、山の風の音が続く。
おもひ:喪に服すること
こもる:寺社にこもって祈る
あらし:もういるまいの意のあらじと、山から吹く嵐を掛ける
- 作者
-
藤原俊成
- 出典
-
新古今和歌集
- その他の歌
-