見し人は世にもなぎさの藻塩草
かきおくたびに袖ぞしをるる
- 歌の意味
-
見馴れた人はもうこの世にいない。渚の藻塩草をかき集めるように、その名を書き置くたびに、袖は涙に濡れしおれることだ。
- 鑑賞
-
巻第八 哀傷歌 843
詞書「亡くなりたる人の数を卒塔婆に書きて歌詠み侍りけるに」
法事や墓所に故人をしのぶ一連の三首目で、一連の最後の歌である。見馴れた人はもうこの世にいない、藻塩草をかくように名を書き置くたびに袖が濡れると詠む。詞書によれば、亡くなった人々の名を卒塔婆に書いて供養し、歌を詠んだときの歌である。
作者は平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、法橋の位にあった。
場面は亡き人々を供養する折、場所は記されていない。
直接の契機は、亡くなった人々の名を卒塔婆に書いたことである。
卒塔婆は、死者の供養のために墓などに立てる、梵字や経文を記した細長い板である。
初句「見し人は」は、かつて見馴れた人は、の意である。
二句「世にもなぎさの」の「なぎさ」は、この世に「無き」の意と、海辺の「渚」を掛ける掛詞である。この世にもういない、の意から渚へと続く。
三句「藻塩草」は、塩を焼くためにかき集める海藻である。書き集めるものの意でも用いられ、ここでは卒塔婆に書く亡き人々の名にたとえる。
四句「かきおくたびに」の「かき」は、藻塩草を「掻き」集める意と、名を「書き」置く意を掛ける掛詞である。
結句「袖ぞしをるる」の「しをる」は、濡れてぐったりする意である。「ぞ」は強意の係助詞で、「しをるる」と連体形で結ぶ。藻塩草が海水に濡れるように、袖は涙に濡れるという。「渚」「藻塩草」「かき」「しをるる」と海辺の語を連ねる。前歌の第八百四十二首の供養の日の涙に続き、卒塔婆に名を書く供養の涙を詠み、法事や墓所に故人をしのぶ一連を結ぶ。
そとば:供養のために墓などに立てる細長い板
なぎさ:この世に無き意と、海辺の渚を掛ける
もしほぐさ:塩を焼くために集める海藻
かく:藻塩草を掻き集める意と、名を書く意を掛ける
しをる:濡れてぐったりする
- 作者
-
行遍
- 出典
-
新古今和歌集
- その他の歌
-