我妹子をいざ見の山を高みかも
大和の見えぬ国遠みかも
- 歌の意味
-
いとしい妻をさあ見ようという名のいざ見の山が高いからだろうか、大和が見えないのは。それとも国が遠いからだろうか。
- 鑑賞
-
巻第一 雑歌 44
詞書は前の歌に続き「伊勢国に幸す時に、石上大臣の従駕して作る歌」
伊勢への行幸に従った旅の途中、故郷の大和が見えないのは、いざ見の山が高いからか、それとも国が遠く離れたからかと嘆く望郷の歌である。「我妹子をいざ見」と山の名に妻を見たいという思いを掛け、旅先から都の妻を恋しく思う心を巧みに表している。前歌が都に残る妻の側から旅の夫を思いやったのに対し、この歌は旅にある夫の側から大和を思っており、対をなす趣となっている。左注は、朱鳥六年(692)の伊勢行幸のことを記している。
作者の石上麻呂は、物部氏の流れをくむ貴族である。壬申の乱では大友皇子に従ったが、のちに天武天皇、持統天皇に仕えて重用され、奈良時代の初めには左大臣にまで昇った。題詞の「石上大臣」は、その後の官職による呼称である。
初句「我妹子を」は、いとしい妻をの意で、「いざ見」の「見」の目的語となり、「いざ見の山」を導く序詞の働きをしている。
二句「いざ見の山を」は、伊勢と大和の境にある高見山とされる山で、その名に、さあ妻を見ようの意を掛けている。
三句「高みかも」は、「〜を〜み」のミ語法で山が高いのでの意、「かも」が疑問で、山が高いからだろうかの意である。ここで切れて、結句と並ぶ構成となっている。
四句「大和の見えぬ」は、大和が見えないの意で、三句と結句の二つの理由を受ける中心の句となっている。
結句「国遠みかも」は、国が遠いからだろうかの意で、三句の「高みかも」と同じ形を繰り返す対句的な構成である。二つの理由を並べて、大和の見えない嘆きを強調している。
わぎもこ:男性が妻や恋人を親しんで呼ぶ語
- 作者
-
石上麻呂
- 出典
-
万葉集
- 前の歌
-
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の 名張の山を今日か越ゆらむ
- 次の歌
-
安騎の野に宿る旅人うち靡き 寐も寝らめやもいにしへ思ふに