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恋をのみすまの浦人藻塩垂れ
干しあへぬ袖の果てを知らばや

歌の意味
恋ばかりをしている私は、須磨の浦人が藻塩の潮水を垂らすように涙に濡れて、干しきれない袖がこの先どうなってしまうのか、その果てを知りたいものだ。
鑑賞
巻第十二 恋歌二 1083

詞書「百首歌奉りし時」
 煙や海辺の景物に寄せて胸に秘めた恋を詠む歌群の三首目である。恋ばかりして涙に濡れ、干すこともできない袖がこの先どうなるのかを知りたいと詠む。詞書によれば、後鳥羽院に百首歌を奉った折の詠である。
 作者の「摂政太政大臣」は藤原良経である。関白九条兼実の子で、摂政、太政大臣に至り、『新古今和歌集』の仮名序を書いた。
 須磨の浦は摂津国(兵庫県神戸市須磨区)の歌枕で、藻塩を焼く海人や、流された者のわびしい住まいと結び付けて詠まれた。『古今和歌集』の在原行平の歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ」を本歌とする。

 初句「恋をのみ」は、恋ばかりを、の意で、二句の「す(為)」に続いて、恋ばかりをする、の意となる。
 二句「すまの浦人」の「すま」には、恋ばかりを「す」る意と、地名の「須磨」が掛けられている。恋に明け暮れる自身が、須磨の浦に住む海人の姿に重ねられる。
 三句「藻塩垂れ」は、藻塩をとるために海藻に潮水を注いで垂らすことで、涙に濡れることのたとえとなる。本歌の行平歌の「藻塩垂れつつ」を取る。前歌の「藻塩火」に続き、藻塩の景物が重ねられている。
 四句「干しあへぬ袖の」は、干しきれない袖の、の意で、涙に濡れ通しの袖が乾く間もないことを示す。
 結句「果てを知らばや」の「ばや」は自己の願望を表す終助詞で、行く末を知りたいものだ、の意となる。本巻の第千八十一首が「果てぞ悲しき」と恋の果てを悲しんだのに対し、ここではその果てを知りたいと願う。

すま:恋ばかりを「す(為)」る意と、地名の須磨を掛ける
うらびと:海辺に住む人、海人
もしほたる:藻塩をとるために海藻に潮水を注ぎ垂らす、転じて涙に濡れる
ほしあふ:すっかり干し終える
作者
藤原良経
出典
新古今和歌集
前の歌
なびかじな海人の藻塩火焚きそめて 煙は空にくゆりわぶとも
次の歌
みるめこそ入りぬる磯の草ならめ 袖さへ波の下に朽ちぬる