里は荒れて空しき床のあたりまで
身はならはしの秋風ぞ吹く
- 歌の意味
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里は荒れて、あの人のいない空しい寝床のあたりにまで、我が身はもう慣れきってしまった秋風が吹いている。
- 鑑賞
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巻第十四 恋歌四 1312
詞書「和歌所にて歌合侍りしに、あひてあはぬ恋の心を」
和歌所と水無瀬の歌合の恋歌を並べる一連の一首目である。里は荒れて、あの人のいない寝床のあたりまで、身に慣れきった秋風が吹くと詠む。詞書によれば、和歌所で催された歌合で、逢って逢わぬ恋の題を詠んだ歌である。
作者の「寂蓮法師」は、俗名を藤原定長といい、藤原俊成の甥で、その猶子となった。新古今和歌集の撰者に任じられたが、撰進を前に没した。
和歌所は、後鳥羽院が建仁元年(1201)に院の御所に設けた和歌の役所で、新古今和歌集の撰集が行われた場である。
なお本文の初句には「あれぬ(ぬ=て)」と注記があり、その指示に従って「荒れて」と読んだ。読み仮名の行は「あれぬ」とする。
初句「里は荒れて」は六音の字余りで、里は荒れて、の意である。次歌の後鳥羽院の歌も「里は荒れぬ」と同じ言い出しで始まる。
二句「空しき床の」は、共寝する人のいない空しい寝床の、の意である。逢って逢わぬ恋の、一度は逢った後の空しさを示す。
三句「あたりまで」は、寝床のあたりにまで、の意である。
四句「身はならはしの」の「ならはし」は、習慣、慣れである。寂しさに慣れてしまった身を言う。
結句「秋風ぞ吹く」は、「ぞ」の係り結びで「吹く」と連体形で結ぶ。前歌までの風の一連を受けつつ、秋風が荒れた里から寝床にまで吹き込むさまに、慣れてもなお身にしむ寂しさを込めている。
むなし:中身がない、空である
ならはし:習慣、慣れ
- 作者
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寂蓮
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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心あらば吹かずもあらなむ宵々に 人待つ宿の庭の松風
- 次の歌
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里は荒れぬ尾上の宮のおのづから 待ち来し宵も昔なりけり