秋を経て月をながむる身となれり
五十路の闇を何嘆くらん
- 歌の意味
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幾度もの秋を経て、月を眺める身となった。五十年の迷いの闇を、今さら何を嘆くことがあろうか。
- 鑑賞
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巻第十六 雑歌上 1539
詞書「五十首歌召ししに」
月にわが身を思う一連の九首目である。幾度もの秋を経て月を眺める身となった今、五十年の迷いの闇を何を嘆くことがあろうかと詠む。詞書によれば、後鳥羽院が五十首歌を召した折の歌である。
作者の「前大僧正慈円」は、藤原忠通の子で、九条兼実の弟にあたる。天台座主を四度務め、史論書『愚管抄』を著した。
仏教では、悟りを明るく澄んだ月に、迷いを闇にたとえる。
初句「秋を経て」は、幾度もの秋を過ごして、の意である。前歌の「年の積もりぬる」を受ける。
二句「月をながむる」は、月を眺めることをいい、澄んだ月に悟りの境地を重ねる。
三句「身となれり」は、存続の「り」で、そういう身となった、の意である。ここで三句切れとなる。
四句「五十路の闇を」の「五十路」は五十歳をいう。五十年の迷いを闇にたとえ、二句の月の明るさと対をなす。
結句「何嘆くらん」は、反語の「何」と現在推量の「らん」で、何を嘆くことがあろうか、の意となる。前歌が憂き世に年を重ねたことを嘆いたのに対し、月を眺める身となった今は迷いの闇を嘆くこともないとし、老いを悟りへと転じている。
いそぢ:五十歳
やみ:暗さ。仏教で迷いのたとえ
- 作者
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慈円
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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秋の夜の月に心を慰めて 憂き世に年の積もりぬるかな
- 次の歌
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ながめても六十路の秋は過ぎにけり 思へば悲し山の端の月