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思ふこと身にあまるまでなる滝の
しばしよどむを何恨むらん

歌の意味
思うことは身に余るほどかなうのだ。鳴る滝がしばらく淀むように、少しの間とどこおるのを、どうして恨むのだろうか。
鑑賞
巻第十九 神祇歌 1860

詞書「この歌は身の沈める事を嘆きて東の方へまからんと思ひ立ちける人、熊野の御前に通夜して侍りける夢に見えけるとぞ」
 神詠を収める一連の九首目である。願いは身に余るほどかなうのだから、鳴る滝の水がしばし淀むように運がしばらく滞るのを恨むことはない、と諭す歌である。左注によれば、身の不遇を嘆いて東国へ下ろうと思い立った人が、熊野の神前で夜通し祈っていた夜、その夢に現れたという。一時の停滞に耐えれば願いは必ずかなうと、失意の人を励ましている。
 この歌には詞書がなく、歌の後に左注が付く。本テキストではこの左注が次歌の番号の下に置かれているが、内容から本歌の左注にあたるため、ここでは本歌の詞書として引く。
 作者名は原文に記されていない。左注から、前歌に続いて熊野の神の詠とされる。

 初句「思ふこと」は、心に願うこと、の意である。前歌に続いて熊野の神の歌で、参詣者を慰め励ます歌が並ぶ。
 二句「身にあまるまで」は、身に余るほどまで、の意で、願いが十分以上にかなうことをいう。
 三句「なる滝の」の「なる」は、願いが「成る」と、滝が「鳴る」とを掛ける掛詞である。願いの成就から、音を立てて流れ落ちる滝の景へと転じる。
 四句「しばしよどむを」は、しばらく淀むのを、の意である。勢いよく流れ落ちる滝も時に淀むことに、身の不遇が一時とどこおることを重ねる。
 結句「何恨むらん」は、どうして恨むのだろうか、の意である。現在推量の助動詞「らん」で嘆く人の心を推し量って問いかけ、恨むには及ばないと諭している。本巻の第千八百六十四首の四句「何過ぐすらん」と、「何〜らん」の問いかけの形を共有する。

なる:願いが「成る」意と、滝が「鳴る」意を掛ける
よどむ:水の流れがとどこおる
しづむ:不遇の身となる
つや:神仏の前で夜通し祈ること
作者
熊野権現(左注による)
出典
新古今和歌集
前の歌
道遠しほども遥かに隔たれり 思ひおこせよ我も忘れじ
次の歌
我頼む人いたづらになしはてば また雲分けて上るばかりぞ