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西の海立つ白波の上にして
何過ぐすらん仮のこの世を

歌の意味
西の海に立つ白波の上にあって、どうして過ごしているのだろうか、この仮の世を。
鑑賞
巻第十九 神祇歌 1864

詞書「この歌は称徳天皇の御時、和気清麿を宇佐宮に奉り給ひける時、託宣し給ひけるとなん」
 神詠を収める一連の十三首目で、一連の最後の歌である。西の海に立つ白波の上にあって、どうしてこの仮の世を過ごしているのかと詠む歌である。左注によれば、称徳天皇の時代に和気清麻呂を宇佐宮に遣わした際、神が託宣した歌という。寄る辺のない波の上になぞらえて、この世のはかなさを示している。
 この歌には詞書がなく、歌の後に左注が付く。本テキストではこの左注が次歌の番号の下に、次歌の詞書と続けて置かれているが、その前半は内容から本歌の左注にあたるため、ここでは本歌の詞書として引く。
 作者名は原文に記されていない。左注により宇佐の神の詠とされる。宇佐八幡宮は豊前国(今の大分県宇佐市)に鎮座する八幡神の本社である。
 称徳天皇は奈良時代の女帝である。和気清麻呂は奈良時代末から平安時代初めの官人で、天皇の使いとして宇佐八幡宮に赴き、神託を受けて都に伝えたことで知られる。

 初句「西の海」は、西方の海の意である。宇佐宮が都から見て西の海辺にあることに応じる。前歌の石清水の神が宇佐から迎えられた神であることを受け、八幡の神の歌が本社の宇佐へとさかのぼる配列である。
 二句「立つ白波の」は、海に立つ白波の、の意である。
 三句「上にして」は、白波の上にあって、の意である。「にして」は場所を示す。波の上という寄る辺のない所をいい、この世の不安定さを示す。
 四句「何過ぐすらん」は、どうして過ごしているのだろうか、の意である。現在推量の助動詞「らん」で問いかける。本巻の第千八百六十首の結句「何恨むらん」と同じ「何〜らん」の形である。
 結句「仮のこの世を」は、仮の住まいであるこの世を、の意である。四句の「過ぐす」の目的語を最後に置く倒置で、世のはかなさを強く印象づける。本歌をもって神詠の一連が終わり、次歌からは日本紀竟宴の歌が続く。

たくせん:神が人にのりうつったり夢に現れたりして意思を告げること
かりのよ:仮の世。はかない現世
作者
宇佐八幡(左注による)
出典
新古今和歌集
前の歌
ありきつつ来つつ見れどもいさぎよき 人の心を我忘れめや
次の歌
白波に玉依姫の来しことは 渚やつひに泊りなりけん