山深く年ふる我もあるものを
いづちか月の出でてゆくらん
- 歌の意味
-
この山深くに長い年月を過ごしてきた私もいるというのに、月はどこへ出て行ってしまうのだろうか。
- 鑑賞
-
巻第二十 釈教歌 1918
詞書「智縁上人、伯耆の大山に参りて出でなんとしける暁、夢に見えける歌」
神仏の示現と高僧の歌を集めた巻頭部の一連の三首目である。山深くに年久しく住む者がいるのに、月はどこへ出て行くのかと、山を去ろうとする上人を月にたとえて惜しむ歌である。詞書によれば、智縁上人が伯耆の大山に参詣し、山を出ようとした明け方に夢に現れた歌である。本テキストでは詞書の冒頭に「この二歌は清水観音の御歌となん言ひ伝へたる」とあるが、これは前二首の左注である。
山に住む者の立場から詠まれており、大山に祀られる神仏の詠と解される。上人を引き止め、山にとどまる功徳を示そうとする心が読み取れる。
作者は原文に記されない。智縁上人は伝の詳らかでない僧で、上人は徳の高い僧への敬称である。
大山は伯耆国(現在の鳥取県)にそびえる山で、古くから山岳信仰の霊場として知られ、大山寺が置かれた。
初句「山深く」は、大山の奥深さを示し、そこに住む者の長い歳月を導く。
二句「年ふる我も」の「我」は、山に年久しく住む者で、山の神仏と解される。巻頭の歌の「わが世の中に」と同じく、神仏が自らの存在を示す言い方である。
三句「あるものを」は、接続助詞「ものを」による逆接で、私がいるのに、の意である。
四句「いづちか月の」は、係助詞「か」でどこへかと問う。「月」は山を出ようとする智縁上人のたとえである。
結句「出でてゆくらん」は、係助詞「か」を受けて連体形「らん」で結ぶ係り結びである。月が山の端から出る景と、上人が山を出て行くことが重ねられている。
いづち:どちら。どの方向
ふ:年月が経つ。過ごす
- 出典
-
新古今和歌集
- 前の歌
-
何か思ふ何をか嘆く世の中は ただ朝顔の花の上の露
- 次の歌
-
蘆そよぐ潮瀬の浪のいつまでか うき世の中にうかびわたらん