わが心なを晴れやらぬ秋霧に
ほのかに見ゆる在曙の月
- 歌の意味
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私の心は、なお晴れきらない秋霧の中に、ほのかに見える有明の月のようである。
- 鑑賞
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巻第二十 釈教歌 1934
詞書「観心如月輪若在軽霧中の心を」
経文の句や教えの心を詠む一連の一首目である。自らの心を、晴れきらない秋霧の中にほのかに見える有明の月にたとえる歌である。詞書によれば、「心を観ずるに月輪の軽霧の中に在るが如し」という経文の句の趣意を詠んだ歌である。
本来は満月のように円満な心が、煩悩の霧にさえぎられてほのかにしか見えないという観心の教えを、秋の明け方の景に移している。
作者の「権僧正公胤」は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗寺門派の僧で、園城寺(三井寺)の長吏を務めた。
観心は、自らの心の本性を観察する修行であり、密教ではその心を月輪(満月)にたとえて観想する。
初句「わが心」は、観心の対象である自らの心を初めに据える。
二句「なを晴れやらぬ」は、なお晴れきらない、の意で、煩悩の迷いが残るさまを示す。
三句「秋霧に」は、経文の「軽霧」を秋の霧に移したもので、心をさえぎる煩悩のたとえである。
四句「ほのかに見ゆる」は、霧を隔ててかすかに見えるさまで、悟りの心が完全には現れていないことを示す。
結句「在曙の月」は、経文の「月輪」を明け方の空に残る月に移したもので、体言止めである。第千九百三十首の「隈なき月」が澄んだ水に映るのと対照的に、この歌の月は霧に隠れてほのかである。
ありあけのつき:夜が明けても空に残っている月
くわんじん:自らの心の本性を観察する修行
- 作者
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公胤
- 出典
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新古今和歌集
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極楽へまだわが心行きつかず 羊の歩みしばしとどまれ
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奥山にひとり憂き世はさとりにき 常なき色を風にながめて