古典和歌stream

鷲の山今日聞く法の道ならで
帰らぬ宿に行く人ぞなき

歌の意味
鷲の山で今日聞く法の道によらずには、二度と迷いの世に帰らない宿に行く人はいない。
鑑賞
巻第二十 釈教歌 1943

詞書「分別功徳品、或住不退地」
 慈円の法華経二十八品歌の一連の三首目である。霊鷲山で説かれ、今日聞く法の道によらなければ、二度と迷いに帰らない境地に至る人はいないと詠む歌である。詞書によれば、『法華経』分別功徳品の「或住不退地」(或いは不退の地に住す)の趣意を詠んだ歌である。
 『法華経』を聞くことこそが、迷いの世に退くことのない境地へ至る唯一の道であるという確信を示している。
 作者名は原文になく、前歌に続いて前大僧正慈円の歌である。前大僧正慈円は、関白藤原忠通の子で、九条兼実の弟にあたる天台宗の僧である。天台座主を四度務め、歴史書『愚管抄』を著した。
 分別功徳品には、仏の寿命が長遠であると聞いて、多くの衆生が不退転の位に住するなどの功徳を得たことが説かれる。不退の地は、修行の境地から退くことのない位である。
 鷲の山は霊鷲山のことで、古代インドのマガダ国の王舎城の近くにあり、釈迦が『法華経』を説いた山とされる。

 初句「鷲の山」は、釈迦が『法華経』を説いた霊鷲山を示し、法の源を初めに据える。
 二句「今日聞く法の」は、昔霊鷲山で説かれた法を、今日この場で聞くことをいい、時と所を越えて法が伝わることを示す。
 三句「道ならで」は、その道によらないでは、の意で、打消しの接続助詞「で」が用いられる。
 四句「帰らぬ宿に」は、二度と迷いの世に帰ることのない宿で、経文の「不退の地」を和らげて移したものである。前歌の「宿」を受け、仮の宿の先にある真の宿として示される。
 結句「行く人ぞなき」は、係助詞「ぞ」を受けて連体形「なき」で結ぶ係り結びで、その道以外に行き着く人はいないと強く言い切る。

わしのやま:霊鷲山。釈迦が『法華経』を説いたとされる山
ふたい:修行の境地から退くことのないこと。不退と書く
作者
慈円
出典
新古今和歌集
前の歌
思ふなよ憂き世の中を出ではてて 宿る奥にも宿はありけり
次の歌
をしなべて空しき空と思ひしに 藤咲きぬれば紫の雲