- 歌の意味
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すべては何もない空しい空だと思っていたのに、藤が咲くと、それは紫の雲であった。
- 鑑賞
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巻第二十 釈教歌 1944
詞書「普門品、心念不空過」
慈円の法華経二十八品歌の一連の四首目で、この一連の結びの歌である。すべて空しい空だと思っていたが、藤が咲くと紫の雲がたなびくようだと詠む歌である。詞書によれば、『法華経』普門品の「心念不空過」(心に念ずれば空しく過ぎず)の趣意を詠んだ歌である。
観音を心に念じることは決して空しく終わらず、やがて来迎の紫雲となって現れるという確信を、藤の花の景に託している。
作者名は原文になく、前歌に続いて前大僧正慈円の歌である。前大僧正慈円は、関白藤原忠通の子で、九条兼実の弟にあたる天台宗の僧である。天台座主を四度務め、歴史書『愚管抄』を著した。
普門品は観世音菩薩普門品のことで、観音の名を聞き、その身を見て、心に念じる者は、空しく過ぎることなく、あらゆる苦しみを滅することができると説かれる。
初句「をしなべて」は、すべて一様に、の意である。次歌も同じ「をしなべて」で始まり、二首が同じ初句で結ばれている。
二句「空しき空と」は、何もない虚空の意で、「空し」と「空」を重ねる。経文の「不空過」の「空」を裏返して用い、次の転換を導く。本巻の第千九百五十二首にも「空しき空」の語が見える。
三句「思ひしに」は、過去の「き」の連体形に接続助詞「に」が付いた逆接で、そう思っていたのに、の意である。
四句「藤咲きぬれば」は、藤の花が咲いたので、の意である。垂れ下がる薄紫の藤の花房を、たなびく雲に見立てている。
結句「紫の雲」は、来迎の紫雲で、体言止めである。本巻の第千九百二十九首、第千九百三十七首に続く「紫の雲」で、空しいと思った空が救いの雲に変わる転換を一語で示している。
おしなぶ:すべて一様にする。「おしなべて」で、すべて、概しての意
むらさきのくも:仏が来迎するときにたなびくとされる紫色の雲
- 作者
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慈円
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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鷲の山今日聞く法の道ならで 帰らぬ宿に行く人ぞなき
- 次の歌
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をしなべて憂き身はさこそなるみ潟 満ち干る潮の変はるのみかは