底清く心の水を澄まさずは
いかがさとりの蓮をも見ん
- 歌の意味
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心の水を底まで清く澄ませなければ、どうして悟りの蓮の花を見ることができようか。
- 鑑賞
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巻第二十 釈教歌 1947
詞書「家に百首歌よみ侍りける時、五智の心を、妙観察智」
経文の句を題とする諸家の歌の一連の三首目である。心の水を底まで清く澄ませなければ、悟りの蓮を見ることはできないと詠む歌である。詞書によれば、自邸で百首歌を詠んだ際に五智の趣意を詠み、その中で妙観察智を詠んだ歌である。
蓮は澄んだ水に咲くという景を借りて、心を清めることが悟りへの道であることを説き、自らを戒める心が表れている。
作者の「入道前関白太政大臣」は九条兼実である。関白藤原忠通の子で、摂政、関白、太政大臣を歴任し、のちに出家した。日記『玉葉』を残し、慈円の兄、藤原良経の父にあたる。
五智は、密教で大日如来に備わるとされる五つの智慧で、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智をいう。妙観察智は、あらゆる事物を正しく観察して疑いを断つ智慧で、阿弥陀如来に配される。
初句「底清く」は、水の底まで清く、の意で、心の奥底までの清らかさを求める。
二句「心の水を」は、心を水にたとえたもので、本巻の第千九百二十六首の「心の塵」や第千九百三十首の澄んだ流れと同じく、清らかな水に心を重ねている。
三句「澄まさずは」は、澄ませないならば、の意で、打消しの「ず」に「は」が付いた仮定の条件である。
四句「いかがさとりの」は、反語の副詞「いかが」で、どうして見られようか、と打ち消す。
結句「蓮をも見ん」は、悟りを蓮の花にたとえる。蓮は阿弥陀の浄土の花であり、妙観察智が阿弥陀に配されることとも響き合う。
はちす:蓮
めうくわんざつち:あらゆる事物を正しく観察して疑いを断つ智慧。妙観察智と書く
- 作者
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九条兼実
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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朝日さす峰のつづきはめぐめども まだ霜深し谷の陰草
- 次の歌
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さらずとていく世もあらじいざやさは 法にかへつる命と思はん