雲晴れて空しき空にすみながら
憂き世の中をめぐる月かな
- 歌の意味
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雲が晴れて何もない空に澄みわたり住みながら、憂き世の中をめぐってゆく月であることよ。
- 鑑賞
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巻第二十 釈教歌 1952
詞書「菩薩清涼月、遊於畢竟空」
寂然らの法文百首の一連の二首目である。雲が晴れた空に澄んで住みながら、なお憂き世をめぐる月を詠む歌である。詞書によれば、「菩薩の清涼の月、畢竟空に遊ぶ」という句の趣意を詠んだ歌である。
菩薩は空の悟りにとどまりながら、衆生を救うためにこの世をめぐるという、悟りと救済をあわせもつ菩薩の姿を、空を渡る月にたとえて讃えている。
作者名は原文になく、前歌に続いて寂然法師の歌である。寂然法師は、俗名を藤原頼業といい、藤原為忠の子である。兄の寂念、寂超とともに大原に隠棲し、大原三寂と呼ばれた。西行と親しく交わった。
畢竟空は、一切のものが究極において空であることをいう。
初句「雲晴れて」は、煩悩の雲が晴れたことを示し、前歌の「夕闇の空」の暗さと対照をなす。
二句「空しき空に」は、経文の「畢竟空」を和らげて移したもので、本巻の第千九百四十四首にも見える語である。
三句「すみながら」の「すみ」は、空に「澄み」の意と、空に「住み」の意を掛ける掛詞である。接続助詞「ながら」で、下の句と逆接的につなぐ。
四句「憂き世の中を」は、衆生の住む迷いの世である。空に住みながらこの世をめぐるという、菩薩の二つの面を示している。
結句「めぐる月かな」は、詠嘆の「かな」で結ぶ。空を渡る月の運行に、衆生を救うために世をめぐる菩薩の働きを重ねている。前歌の蛍のかすかな光に対し、この歌の月は世をあまねく照らす光である。
すむ:空に「澄む」意と、空に「住む」意を掛ける
めぐる:あちこちを巡り歩く
- 作者
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寂然
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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道のべの蛍ばかりをしるべにて ひとりぞ出づる夕闇の空
- 次の歌
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吹く風に花橘やにほふらん 昔おぼゆる今日の庭かな