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音に聞く君がりいつかいきの松
まつらんものを心づくしに

歌の意味
名に聞くあなたのもとへ、いつ行くことができるのだろうか。生の松のように、心を尽くして待っていてくださるだろうに。
鑑賞
巻第二十 釈教歌 1959

詞書「聞名欲往生」
 寂然らの法文百首の一連の九首目である。名に聞く阿弥陀仏のもとへいつ行けるのか、仏は心を尽くして待っていてくださるだろうにと詠む歌である。詞書によれば、「名を聞きて往生せんと欲す」という句の趣意を詠んだ歌である。
 阿弥陀仏の名を聞いて往生を願う心を、遠く筑紫の地で待つ恋しい人のもとへ行きたいと願う恋の歌の形で表している。
 作者の「寂然法師」は、俗名を藤原頼業といい、藤原為忠の子である。兄の寂念、寂超とともに大原に隠棲し、大原三寂と呼ばれた。西行と親しく交わった。
 「聞名欲往生」は、『無量寿経』の偈に見える句で、阿弥陀仏の本願の力により、その名を聞いて往生を願う者は、皆その国に至ると説かれる。
 生の松原は筑前国の歌枕で、現在の福岡市西区の海岸にある松原である。「生き」や「行き」と掛けて詠まれることが多い。

 初句「音に聞く」は、評判に聞く、の意で、経文の「名を聞き」を移している。
 二句「君がりいつか」の「君」は阿弥陀仏を指し、「がり」は、のもとへ、の意である。係助詞「か」で、いつ行けるのかと問う。
 三句「いきの松」の「いき」は、君のもとへ「行き」の意と、地名「生の松原」を掛ける掛詞である。「松」は次の「まつ」を導く。
 四句「まつらんものを」の「まつ」は、「松」と「待つ」を掛ける掛詞で、仏が待っていてくださるだろうに、の意である。接続助詞「ものを」が、なかなか行けない身の嘆きを込める。
 結句「心づくしに」の「心づくし」は、心を尽くす意と、生の松原のある「筑紫」を掛ける掛詞である。倒置によって、仏が心を尽くして待つことを強く印象づけて結ぶ。

いき:君のもとへ「行き」の意と、地名「生の松原」を掛ける
まつ:「松」と「待つ」を掛ける
こころづくし:心を尽くす意と、地名「筑紫」を掛ける
作者
寂然
出典
新古今和歌集
前の歌
あひ見ても峰に別るる白雲の かかるこの世のいとはしきかな
次の歌
別れにしその面影の恋しき 夢にも見えよ山の葉の月