- 歌の意味
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別れてしまったその面影が恋しいので、せめて夢にでも現れてほしい、山の端の月よ。
- 鑑賞
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巻第二十 釈教歌 1960
詞書「心懐恋慕、渇仰於仏」
寂然らの法文百首の一連の十首目で、この一連の結びの歌である。別れた仏の面影が恋しいので、せめて夢にでも現れてほしいと、山の端の月に呼びかける歌である。詞書によれば、「心に恋慕を懐き、仏を渇仰す」という句の趣意を詠んだ歌である。
入滅した仏を恋い慕い、その姿を仰ぎ求める心を、別れた恋人の面影を慕う恋の歌の形で表している。
作者名は原文になく、前歌に続いて寂然法師の歌である。寂然法師は、俗名を藤原頼業といい、藤原為忠の子である。兄の寂念、寂超とともに大原に隠棲し、大原三寂と呼ばれた。西行と親しく交わった。
「心懐恋慕、渇仰於仏」は、『法華経』如来寿量品に見える句で、仏が入滅の姿を示すことで、衆生が仏を恋い慕い、渇いた者が水を求めるように仏を仰ぐ心を起こすと説かれる。
初句「別れにし」は、完了の「ぬ」と過去の「き」で、すでに別れてしまった、の意である。本巻の第千九百五十四首と同じく寿量品を題とし、去った仏との別れを受けている。
二句「その面影の」は、別れた仏の姿で、恋の歌で恋人の面影を慕う表現を借りている。
三句「恋しき」は、経文の「恋慕」を移したもので、本文では四音で記されている。
四句「夢にも見えよ」は、命令形で、せめて夢にでも現れよと願う。経文の「渇仰」を、恋人の夢を願う心に移している。
結句「山の葉の月」は、山の端に出る月で、仏のたとえである。体言止めで、呼びかけとして結ぶ。本文は「端」を「葉」と記している。
おもかげ:心に浮かぶ姿。面影
やまのは:山の稜線。空と接する山の端
- 作者
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寂然
- 出典
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新古今和歌集
- 前の歌
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音に聞く君がりいつかいきの松 まつらんものを心づくしに
- 次の歌
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わたつ海の深きに沈むいさりせで 保つかひある法を求めよ