見れど飽かぬ吉野の川の常滑の
絶ゆることなくまたかへり見む
- 歌の意味
-
いくら見ても見飽きることのない吉野の川の、いつも滑らかな川底の岩のように、絶えることなく、また繰り返しここに来て見よう。
- 鑑賞
-
巻第一 雑歌 37
詞書は前の歌に続き「吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌 反歌」
見飽きることのない吉野川の常滑のように、絶えることなく何度でもこの地を訪れて見ようと詠む反歌である。長歌の結句「見れど飽かぬかも」を初句に受けて、吉野の宮の永遠の繁栄をたたえている。持統天皇はたびたび吉野に行幸しており、左注は日本書紀を引いてその回数の多さを記したうえで、どの行幸の折の作かはわからないとしている。
作者の柿本人麻呂は、持統天皇と文武天皇の時代に活躍した宮廷歌人で、万葉集を代表する歌人である。官位は低かったとみられるが、長歌を中心に雄大で格調高い歌を数多く残し、後世には「歌聖」とたたえられた。
初句「見れど飽かぬ」は、いくら見ても見飽きないの意で、長歌の結句「見れど飽かぬかも」をそのまま受けている。長歌と反歌をつなぐ典型的な技法で、初句は字余りとなっている。
二句「吉野の川の」は、吉野の宮のそばを流れる吉野川を指している。
三句「常滑の」は、川底の岩に水苔がついていつも滑らかになっている所をいう。初句から三句までが、「絶ゆることなく」を導く序詞となっている。
四句「絶ゆることなく」は、常滑が絶えないように、途絶えることなくの意である。川の流れの永続性に、行幸の繰り返しと宮の繁栄の永続を重ねている。
結句「またかへり見む」は、「かへり見る」が繰り返し来て見るの意、「む」が意志の助動詞で、また来て見ようの意である。天皇の行幸がこれからも続くことを予祝している。
とこなめ:川底の岩に水苔がついて、いつも滑らかな所
かへりみる:繰り返し来て見る
- 作者
-
柿本人麻呂
- 出典
-
万葉集
- 前の歌
-
これやこの大和にしては我が恋ふる 紀路にありといふ名に負ふ背の山
- 次の歌
-
山川も依りて仕ふる神ながら たぎつ河内に舟出せすかも