海の底沖つ白波竜田山
いつか越えなむ妹があたり見む
- 歌の意味
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沖の白波が立つ、その名の竜田山をいつ越えられるだろうか。越えて妻の住むあたりを見よう。
- 鑑賞
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巻第一 雑歌 83
詞書は前の歌に続き「和銅五年壬子の夏四月、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌」
竜田山を早く越えて、故郷で待つ妻の住むあたりを見たいと願う望郷の歌である。上の二句が「立つ」と同音の「竜田」を導く序詞となっており、海の白波の景から山越えの思いへと転じる技巧が印象的である。前歌と同じく、左注は当時誦された古歌かと疑っている。竜田山は大和と河内の境の山であり、伊勢からの帰路にあたらないことも、古歌の転用とみる根拠とされている。
作者の長田王は、奈良時代初めの皇族で、系譜は明らかでない。近江守や衛門督などを歴任し、天平九年(737)に没した。左注の疑いのとおり古歌を誦したものであれば、長田王自身の作ではないことになる。
初句「海の底」は、「わたのそこ」と読み、海の底の意で、「沖」にかかる枕詞である。
二句「沖つ白波」は、沖に立つ白波の意である。白波が「立つ」ことから、初二句が同音の「竜田山」を導く序詞となっている。
三句「竜田山」は、大和と河内の境にある山で、現在の奈良県生駒郡三郷町のあたりにあたる。大和へ帰る道筋の山として詠まれることが多い。
四句「いつか越えなむ」は、「か」が疑問の係助詞、「な」が完了の助動詞「ぬ」の未然形、「む」が推量の助動詞の連体形で結ぶ係り結びで、いつ越えることができるだろうかの意である。ここで句切れとなっている。
結句「妹があたり見む」は、「む」が意志の助動詞で、妻の住むあたりを見ようの意である。結句は字余りとなっている。本巻の第七十八首の「君があたり」と同じく、「〜があたり」によって恋しい人の住む所を思う表現である。
わたのそこ:海の底。「沖」にかかる枕詞
いも:男性が妻や恋人を親しんで呼ぶ語
- 作者
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長田王(古歌の誦詠か)
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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うらさぶる心さまねしひさかたの 天のしぐれの流らふ見れば
- 次の歌
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秋さらば今も見るごと妻恋ひに 鹿鳴かむ山ぞ高野原の上