- 歌の意味
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橘の木陰を踏んで行く道が八方に分かれる辻のように、あれこれと思い乱れている。妻に逢わないままで。
- 鑑賞
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巻第二 相聞 125
詞書は前の歌に続き「三方沙弥、園臣生羽が女を娶りて、いまだ幾時も経ねば病に臥して作る歌三首」
橘の木陰の道がいくつにも分かれる辻に、あれこれと思い乱れる心を重ね、妻に逢えない嘆きで結んだ一首である。
詞書によれば、三方沙弥が園臣生羽の娘を妻に迎えて間もなく病に臥したときの歌三首で、歌の末尾の「三方沙弥」「娘子」の小注によって詠み手が示される。夫の問い、妻の答え、夫の嘆きと続く贈答の一連である。本歌はその三首目で、末尾の「三方沙弥」の小注は歌の本文から除いた。
作者の三方沙弥は、伝未詳の人物である。沙弥は出家して間もない僧の称で、のちに還俗して山田御方となった人物とする説がある。
初句「橘の」の橘は常緑の木で、都の大路に植えられていたとされる。
二句「蔭踏む道の」は、木陰を踏んで行く道のの意である。
三句「八衢に」までが序詞で、道がいくつにも分かれる所の意から、思いがあれこれと乱れることを導く。
四句「物をぞ思ふ」の「ぞ」は係助詞で、連体形「思ふ」で結ぶ係り結びである。四句切れとなる。
結句「妹に逢はずして」は、妻に逢わないままでの意で、倒置によって嘆きの理由を最後に示す。
たちばな:ミカン科の常緑樹
やちまた:道がいくつにも分かれる所
- 作者
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三方沙弥
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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人皆は今は長しとたけと言へど 君が見し髪乱れたりとも
- 次の歌
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風流士と我れは聞けるをやど貸さず 我れを帰せりおその風流士