御笠山野辺ゆ行く道こきだくも
荒れにけるかも久にあらなくに
- 歌の意味
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御笠山の野辺を通って行く道は、こんなにもひどく荒れてしまったことだ。まだ久しくもないのに。
- 鑑賞
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巻第二 挽歌 234
詞書は前の歌に続き「霊亀元年歳次乙卯の秋九月、志貴親王の薨ぜし時に作る歌、或本の歌に曰く」
御笠山の野辺を通る道が、まだ久しくもないのにこんなにも荒れてしまったと嘆いた一首で、万葉集巻第二の巻末の歌である。
霊亀元年(715)九月に志貴皇子が亡くなったときの挽歌で、長歌の第二百三十首は、高円山に燃える葬送の松明の火を野火かと問う形で皇子の死を悼んでいる。志貴皇子は天智天皇の皇子で、のちの光仁天皇の父である。本歌は或本に伝わる歌として添えられたもので、第二百三十二首の別の形とみられる。
作者は明示されていない。第二百三十二首と同じく笠金村の作とみる説もあるが、定まっていない。
巻頭の第八十五首が「日長くなりぬ」と待つ時の長さを嘆いたのに対し、巻末の本歌は「久にあらなくに」とわずかな時の間の変わりようを嘆いており、時の長さと短さをめぐって巻頭と巻末が呼応している。
初句「御笠山」は、第二百三十二首と同じ初句である。
二句「野辺ゆ行く道」の「ゆ」は経由を表し、野辺を通って行く道の意である。第二百三十二首では「野辺行く道は」とある。
三句「こきだくも」は、こんなにもひどくの意である。
四句「荒れにけるかも」の「にけり」は完了と詠嘆、「かも」は詠嘆で、荒れてしまったことだの意。四句切れとなる。第二百三十二首の「繁く荒れたるか」の問いかけに対し、本歌は詠嘆の形で言い切っている。
結句「久にあらなくに」は、まだ久しくもないのにの意で、第二百三十二首と同じ結句である。巻第二はこの句で閉じられる。
みかさやま:奈良の春日にある山
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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高円の野辺の秋萩な散りそね 君が形見に見つつ偲はむ
- 次の歌
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大君は神にしませば天雲の 雷の上に廬りせるかも