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み吉野の象山の際の木末には
ここだも騒く鳥の声かも

歌の意味
み吉野の象山の山あいの梢では、なんとたくさん騒いでいる鳥の声であることよ。
鑑賞
巻第六 雑歌 924

詞書は前の歌に続き「反歌二首」
 み吉野の象山の山あいの梢で、多くの鳥がにぎやかに鳴き騒いでいる声を詠む歌である。鳥の声のにぎわいによって、吉野の山の生気と、宮の周囲の自然の豊かさを讃えている。叙景に優れた赤人の代表作の一つとして名高い。
 直前の長歌(第九百二十三首)は「山部宿祢赤人が作る歌二首」の一首目で、聖武天皇の吉野の宮を、青垣のような山々に囲まれ、清らかな川の流れる河内として讃え、大宮人が常に通うであろうと結んでいる。作歌の年次は記されていないが、神亀二年(725)五月の笠金村の吉野行幸の歌の次に置かれている。
 象山は、吉野の宮滝の対岸にそびえる山で、吉野川に注ぐ象の小川が麓を流れている。
 作者の山部赤人は奈良時代前期の宮廷歌人で、聖武天皇の時代を中心に行幸に従い、多くの歌を残した。官位や経歴は明らかでないが、清らかな叙景歌に優れ、古今和歌集の仮名序では柿本人麻呂と並び称されている。

 反歌二首は、本歌が昼の山の梢に騒ぐ鳥の声を、次歌の第九百二十五首が夜更けの川原に鳴く千鳥の声を詠み、昼と夜、山と川という対照によって吉野の宮の景を描き分けている。
 初句「み吉野の」の「み」は美称の接頭語で、吉野を尊んで呼ぶ言い方である。
 二句「象山の際の」は、象山の山あいのの意である。「際」は山と山の間、山のあたりをいう。
 三句「木末には」は、梢にはの意で、係助詞「は」によって、鳥の声が聞こえる場所を取り立てている。
 四句「ここだも騒く」は、なんとたくさん騒いでいるの意で、「ここだ」は数量や程度のはなはだしいことを表す。
 結句「鳥の声かも」は、鳥の声であることよの意で、「かも」は詠嘆を表す終助詞である。姿ではなく声をとらえて、山の奥行きと鳥の多さを感じさせている。

きさやま:吉野の宮滝の対岸にある山
ま:山と山の間、あたり
こぬれ:木の枝の先、梢
さわく:鳥などが盛んに鳴き騒ぐ
作者
山部赤人
出典
万葉集
前の歌
皆人の命も我れもみ吉野の 滝の常磐の常ならぬかも
次の歌
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる 清き川原に千鳥しば鳴く