さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ
日だにや君がはた逢はざらむ
- 歌の意味
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牡鹿の鳴く声が聞こえる山を越えて行くであろうその日にさえ、あなたはやはり逢ってくれないのだろうか。
- 鑑賞
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巻第六 雑歌 953
詞書は前の歌に続き「五年戊辰、難波の宮に幸せる時に作る歌四首」
牡鹿の鳴く山を越えて旅立つ日にさえ、あなたはやはり逢ってくれないのだろうかと嘆く歌である。題詞によれば、神亀五年(728)、聖武天皇が難波の宮に行幸した折に詠まれた四首の一つである。四首はいずれも行幸の讃歌ではなく、恋の思いを山や玉や松などに託して詠んだ歌となっている。
旅立ちの日という特別な日にさえ逢えないのかという嘆きには、日ごろから逢うことのかなわない恋のつらさがにじんでいる。四首の中で、前の三首が山や玉や松に託して相手を求める思いを述べたのに対し、この歌は相手に直接呼びかける形で結ばれ、一連の締めくくりとなっている。
左注に「右は、笠朝臣金村が歌の中に出づ。或いは云はく、車持朝臣千年が作なりと」とあり、笠金村の歌集に収められていたが、車持千年の作とする伝えもあって、作者は定まらない。笠金村、車持千年はともに元正天皇から聖武天皇の時代にかけて行幸に従った宮廷歌人である。
初句「さを鹿の」の「さ」は接頭語で、牡鹿の意である。秋に妻を求めて鳴く鹿は、恋の思いを誘う景物として詠まれることが多く、この歌でも相手を恋う心を背景に置いている。
二句「鳴くなる山を」の「なる」は、音や声によって推し量る助動詞で、鳴いているのが聞こえる山をの意である。
三句「越え行かむ」は、越えて行くであろうの意で、これから山を越えて旅立つ日を思い描いている。
四句「日だにや君が」の「だに」は、せめてそれだけでもの意を表す副助詞で、旅立つ日くらいはという思いを示している。「や」は疑問の係助詞で、結句の「ざらむ」で結ばれる。
結句「はた逢はざらむ」の「はた」は、それでもやはりの意で、四句の「や」を受けて、逢ってくれないのだろうかという嘆きの結びとなっている。
さをしか:牡鹿。「さ」は接頭語
こゆ:山などを越える
- 出典
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万葉集
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韓衣着奈良の里の島松に 玉をし付けむよき人もがも
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朝は海辺にあさりし夕されば 大和へ越ゆる雁し羨しも