しましくも行きて見てしか神なびの
淵はあせにて瀬にかなるらむ
- 歌の意味
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少しの間でも行って見たいものだ。神なびの淵は浅くなって、瀬になっているのだろうか。
- 鑑賞
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巻第六 雑歌 969
詞書「三年辛未、大納言大伴卿の寧楽の家に在りて故郷を思ふ歌二首」
わずかの間でも故郷へ行って見たい、神なびの淵は浅くなって瀬に変わっているだろうか、と思いやる歌である。天平三年(731)、大宰府から戻った大伴旅人が、奈良の家にいて故郷を思って詠んだ二首の一首目である。故郷とは、かつて都が置かれた飛鳥の地を指すとみられ、神なびの淵はその地を流れる飛鳥川の淵と考えられている。
長い筑紫での歳月を経て都に戻った旅人が、近くにありながら訪ねられない故郷の川の変わりようを案じている。淵が瀬に変わるという言い方には、時の流れによって移り変わるものへの感慨がこもっており、後の古今和歌集の「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」に通じる発想である。旅人はこの年の七月に没しており、晩年の作である。
作者の大伴旅人は大伴安麻呂の子で、家持の父である。神亀年間の末に大宰帥として筑紫に下り、天平二年(730)十二月に大納言に任じられて都へ戻った。翌天平三年(731)七月に従二位大納言で没している。
次歌の第九百七十首とは、ともに「行きて」を詠み込んで故郷を訪ねたい思いを述べる対をなす。本歌が「しましくも」と今すぐの思いを述べるのに対し、次歌は「散らむ時にし」と萩の散るころという先の時を定めており、時の対比が見られる。
初句「しましくも」は、少しの間でもの意である。長くは望まず、ほんのしばらくでよいという言い方に、故郷を訪ねたい切実な思いが表れている。
二句「行きて見てしか」は、行って見たいものだの意で、「てしか」は自己の願望を表す終助詞である。ここで意味が切れる二句切れである。
三句「神なびの」は、神が降りて宿る森や山をいう語で、ここでは飛鳥の神なびを指すとみられる。
四句「淵はあせにて」は、淵は水が浅くなっての意である。深くよどんでいた淵が、時を経て浅くなってしまったことを思いやっている。
結句「瀬にかなるらむ」は、瀬になっているのだろうかの意である。「か」は疑問の係助詞で、現在推量の助動詞「らむ」の連体形で結ぶ係り結びである。目の前にない故郷の様子を推し量っている。
かむなび:神が降りて宿るとされる森や山
あす:浅くなる、水がかれる
せ:川の浅く流れの速い所
- 作者
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大伴旅人
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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ますらをと思へる我れや水茎の 水城の上に涙拭はむ
- 次の歌
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指進の栗栖の小野の萩の花 散らむ時にし行きて手向けむ