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一つ松幾代か経ぬる吹く風の
音の清きは年深みかも

歌の意味
この一本松は幾代を経てきたのだろうか。吹く風の音が清らかなのは、年を深く重ねているからだろうか。
鑑賞
巻第六 雑歌 1042

詞書「同じ月の十一日、活道の岡に登り、一株の松の下に集ひて飲む歌二首」
 一本松はどれほどの代を経てきたのか、松を吹く風の音が清らかなのは年を深く重ねているからだろうか、と詠む歌である。詞書によれば、天平十六年(744)正月十一日、人々が活道の岡に登り、一本の松の下に集まって酒宴を開いたときの歌二首の一首目で、左注により市原王の作とわかる。活道の岡は久迩京の近くにあった岡とされる。
 松風の音の清らかさを、松が重ねてきた長い年月に結びつけたところに趣向がある。一本松の古さを讃えることは、その下に集う人々の長寿や繁栄を祝う心にも通じている。
 作者の市原王は、志貴皇子の曾孫で安貴王の子にあたる皇族である。のちに造東大寺司の長官などを務めた。

 本歌と次歌の第千四十三首は同じ松の下の宴の歌で、本歌が松の経てきた過去の「幾代」を思い、次歌が「長くとぞ思ふ」とこれからの命の長さを願う。過去と未来という別の方向から、松の長い時間を詠む対となっている。
 初句「一つ松」は、一本だけ立つ松の意で、詞書の「一株の松」を指す。体言で歌い起こし、眼前の松を示している。
 二句「幾代か経ぬる」は、どれほどの代を経たのだろうかの意である。係助詞「か」の結びとして、完了の助動詞「ぬ」が連体形「ぬる」となる係り結びである。ここで意味が切れる二句切れの歌である。
 三句「吹く風の」は、松を吹き渡る風のの意で、目に見える松から耳に聞こえる松風の音へと転じている。
 四句「音の清きは」は、その音が清らかなのはの意である。「清き」は清らかさを讃える語で、宴の場をたたえる心を含む。
 結句「年深みかも」は、年を深く重ねているからだろうかの意である。「年深み」は「年深し」のミ語法で理由を表し、「かも」は疑問を含む詠嘆である。二句の「幾代」を受けて、松の古さに答えを見いだしている。

いくよ:幾つの代、長い年月
作者
市原王
出典
万葉集
前の歌
我がやどの君松の木に降る雪の 行きには行かじ待にし待たむ
次の歌
たまきはる命は知らず松が枝を 結ぶ心は長くとぞ思ふ