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三香の原布当の野辺を清みこそ
大宮所定めけらしも

歌の意味
三香の原の布当の野辺が清らかなので、ここを大宮所とお定めになったらしい。
鑑賞
巻第六 雑歌 1051

詞書は前の歌に続き「反歌二首」
 三香の原の布当の野辺が清らかだからこそ、天皇はここを大宮所とお定めになったのだろう、と詠む歌である。直前の長歌(第千五十首)は「久迩の新京を讃むる歌」二首の一首目で、鹿背山のあたりに宮柱を立てた布当の宮を、川の瀬の音の清さ、山の鳥の声とともに讃え、「大宮ここと定めけらしも」と結んでいる。この反歌はその結びを受け、土地の清らかさこそが都の地に選ばれた理由であると改めて讃えている。
 久迩京は、天平十二年(740)の末に聖武天皇が都と定めた山背国の都で、宮の跡は現在の京都府木津川市加茂町にある。三香の原はその一帯の野、布当はその宮のあたりの地名である。
 本歌を含む第千四十七首から巻末の第千六十七首までの二十一首は、巻末の左注に「右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ」とある。左注により田辺福麻呂歌集から採られた歌であり、福麻呂の作とみられる。
 作者の田辺福麻呂は奈良時代中期の歌人で、天平二十年(748)には造酒司の令史として左大臣橘諸兄の使者を務めている。宮廷の儀礼的な長歌の伝統を受け継いだ、万葉集の最後期を代表する歌人の一人とされる。
 なお原文では、四句の後に「一に云ふ、ここと標刺し」という異伝の注記があり、四句を「ここと標刺し」とする伝えもあったことがわかる。この注記は歌の本文ではないため除き、ここでは本文の「大宮所」を採る。

 本歌の結句「定めけらしも」は、巻頭の笠金村の吉野讃歌(本巻の第九百七首)の結び「うべし神代ゆ定めけらしも」と同じ表現で、ともに土地の「清」さを理由に宮の地が定められたと讃えている。吉野の離宮を讃えて始まった巻が、終わり近くで新しい都を同じ型で讃える対応となっている。また、のちに久迩京の荒墟を悲しむ反歌(第千六十首)は同じ「三香の原」で歌い起こし、讃美から荒廃への反転を示している。
 初句「三香の原」は、久迩京の置かれた一帯の野の名で、都の地名から歌い起こしている。
 二句「布当の野辺を」は、布当の野辺をの意で、宮の置かれたあたりをさらに絞って示している。
 三句「清みこそ」は、清らかなのでこそという意である。「清み」は「清し」のミ語法で理由を表し、係助詞「こそ」が理由を強く取り立てて、結句の「けらし」と呼応している。
 四句「大宮所」は、天皇の宮殿のある所、都の地の意である。長歌の「大宮ここと」を受けた語で、次歌の第千五十二首の結句にも置かれている。
 結句「定めけらしも」は、お定めになったらしいの意である。「けらし」は過去の事柄を根拠をもって推し量る助動詞で、三句の係助詞「こそ」の結びとなり、「も」が詠嘆を添えている。

のへ:野のあたり、野原
おほみやところ:天皇の宮殿のある所、都の地
しめさす:標を立てて、その場所を占有する
作者
田辺福麻呂
出典
万葉集
前の歌
なつきにし奈良の都の荒れゆけば 出で立つごとに嘆きし増さる
次の歌
山高く川の瀬清し百代まで 神しみゆかむ大宮所