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狛山に鳴く霍公鳥泉川
渡りを遠みここに通はず

歌の意味
狛山で鳴くほととぎすは、泉川の渡り場が遠いので、ここには通って来ない。
鑑賞
巻第六 雑歌 1058

詞書は前の歌に続き「反歌五首」
 狛山で鳴くほととぎすは、泉川の渡り場が遠いので、こちらには通って来ない、と詠む歌である。直前の長歌(第千五十三首)は「久迩の新京を讃むる歌」二首の二首目で、布当の宮を、木々の茂る山、落ちたぎつ瀬の音の清さ、春の鴬、秋のさを鹿などの景とともに讃え、「百代にも変るましじき大宮所」と結んでいる。本歌はその反歌五首の結びで、川をへだてた狛山から聞こえるほととぎすの声を、鳥が川を渡ってこないためと戯れるように詠み、都のまわりの景の豊かさを讃えている。
 狛山は、久迩京の近くの泉川のほとりにある山とされる。
 本歌を含む第千四十七首から巻末の第千六十七首までの二十一首は、巻末の左注に「右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ」とある。左注により田辺福麻呂歌集から採られた歌であり、福麻呂の作とみられる。
 作者の田辺福麻呂は奈良時代中期の歌人で、天平二十年(748)には造酒司の令史として左大臣橘諸兄の使者を務めている。宮廷の儀礼的な長歌の伝統を受け継いだ、万葉集の最後期を代表する歌人の一人とされる。
 なお原文では、歌の末尾に「一に云ふ、渡り遠みか通はずあるらむ」という異伝の注記があり、四句と結句を「渡り遠みか通はずあるらむ」とする伝えもあったことがわかる。この注記は歌の本文ではないため除き、ここでは本文の「渡りを遠みここに通はず」を採る。

 前歌の第千五十七首の鴬が「来鳴き響もす」のに対し、本歌のほととぎすは「ここに通はず」と詠まれ、来て鳴く鳥と来ない鳥、春の鳥と夏の鳥が対をなしている。また「泉川」は、反歌五首の一首目の第千五十四首の初句と同じ川の名で、五首の初めと終わりが同じ川で結ばれている。
 初句「狛山に」は、川向こうの山の名で、ほととぎすの声が聞こえてくる場所を示している。
 二句「鳴く霍公鳥」は、鳴いているほととぎすの意で、夏を告げる鳥として詠まれている。
 三句「泉川」は、久迩京を流れる川の名で、狛山とこちらをへだてる川として置かれている。
 四句「渡りを遠み」は、渡り場が遠いのでの意である。「を」と「遠み」のミ語法で理由を表している。
 結句「ここに通はず」は、ここには通って来ないの意で、打消の「ず」で言い切っている。声は聞こえるのに姿を見せない鳥への思いを、軽やかな理由づけで結んでいる。

ほととぎす:初夏に渡って来て鳴く鳥
わたり:川を渡る所、渡し場
かよふ:行き来する、通って来る
作者
田辺福麻呂
出典
万葉集
前の歌
鹿背の山木立を茂み朝さらず 来鳴き響もす鴬の声
次の歌
三香の原久迩の都は荒れにけり 大宮人のうつろひぬれば