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あり通ふ難波の宮は海近み
海人娘子らが乗れる舟見ゆ

歌の意味
大君が通い続ける難波の宮は海が近いので、海人の娘子たちが乗っている舟が見える。
鑑賞
巻第六 雑歌 1063

詞書は前の歌に続き「反歌二首」
 天皇が通い続ける難波の宮は海が近いので、海人の娘子たちの乗る舟が見える、と詠む歌である。直前の長歌(第千六十二首)は「難波の宮にして作る歌」と題され、天皇が通い続ける難波の宮を、海に面して玉を拾う浜辺の清らかさ、浦の洲に妻を呼ぶ千鳥、葦辺に響く鶴の声などの景とともに讃え、「御食向ふ味経の宮は見れど飽かぬかも」と結んでいる。この反歌は、長歌の「海片付きて」を受け、宮から間近に見える海人の舟という景によって、海辺の宮ならではの趣を讃えている。
 難波の宮は現在の大阪市中央区にあった宮で、聖武天皇の時代に改めて造営され、天平十六年(744)には一時皇都とされた。
 本歌を含む第千四十七首から巻末の第千六十七首までの二十一首は、巻末の左注に「右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ」とある。左注により田辺福麻呂歌集から採られた歌であり、福麻呂の作とみられる。
 作者の田辺福麻呂は奈良時代中期の歌人で、天平二十年(748)には造酒司の令史として左大臣橘諸兄の使者を務めている。宮廷の儀礼的な長歌の伝統を受け継いだ、万葉集の最後期を代表する歌人の一人とされる。

 久迩の都が荒れたことを嘆く反歌(本巻の第千六十首、第千六十一首)の後に、難波の宮を讃える歌が置かれ、荒廃から再び讃美へと転じる配列となっている。海人の舟が見えることで宮の地を讃える趣向は、第千三十三首の大伴家持の「志摩の海人ならしま熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ」とも、「海人」「舟」「見ゆ」の語を共有している。
 初句「あり通ふ」は、いつも通い続けるの意で、天皇がたびたび行幸することをいう。第千六首の山部赤人の吉野讃歌の「吉野の宮にあり通ひ」と同じ語で、吉野の宮と難波の宮がともに天皇の通い続ける宮として讃えられている。
 二句「難波の宮は」は、讃える対象となる宮の名を示し、「は」で取り立てている。
 三句「海近み」は、海が近いのでの意で、「近み」は「近し」のミ語法で理由を表している。久迩京を讃えた長歌(第千五十首)の「川近み」「山近み」と同じ言い方で、川と山の都に対して海の宮を讃えている。
 四句「海人娘子らが」は、海で漁などをして暮らす娘たちがの意で、宮の近くの海の暮らしを描いている。
 結句「乗れる舟見ゆ」は、乗っている舟が見えるの意である。「る」は存続の助動詞「り」の連体形で、宮から眺めた海の景を「見ゆ」と言い切っている。

ありがよふ:いつも通い続ける
あまをとめ:海で漁などをして暮らす娘
作者
田辺福麻呂
出典
万葉集
前の歌
咲く花の色は変らずももしきの 大宮人ぞたち変りける
次の歌
潮干れば葦辺に騒く白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに