まそ鏡敏馬の浦は百舟の
過ぎて行くべき浜ならなくに
- 歌の意味
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敏馬の浦は、多くの舟がただ通り過ぎて行ってよいような浜ではないのに。
- 鑑賞
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巻第六 雑歌 1066
詞書は前の歌に続き「反歌二首」
敏馬の浦は、多くの舟がそのまま通り過ぎて行ってよいような浜ではないのに、と詠む歌である。直前の長歌(第千六十五首)は「敏馬の浦を過ぐる時に作る歌」と題され、八千桙の神の御代から多くの舟が泊まる港と定められてきた敏馬の浦を、朝風に騒ぐ浦波、夕波に寄る玉藻、白砂の清い浜辺の景とともに讃え、「百代経て偲はえゆかむ清き白浜」と結んでいる。この反歌は、長歌の題にある「過ぐる」を受け、立ち寄らずに通り過ぎることを惜しむ形で、浦の美しさを讃えている。
敏馬の浦は現在の兵庫県神戸市灘区の海岸にあたるとされる浦で、難波から西へ向かう船旅の途中にある港であった。
本歌を含む第千四十七首から巻末の第千六十七首までの二十一首は、巻末の左注に「右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ」とある。左注により田辺福麻呂歌集から採られた歌であり、福麻呂の作とみられる。
作者の田辺福麻呂は奈良時代中期の歌人で、天平二十年(748)には造酒司の令史として左大臣橘諸兄の使者を務めている。宮廷の儀礼的な長歌の伝統を受け継いだ、万葉集の最後期を代表する歌人の一人とされる。
敏馬の浦は、本巻の第九百四十六首の山部赤人の長歌にも「敏馬の浦」として詠まれており、同じ浦を詠む歌が巻の中に二度置かれている。また本歌の「百舟」は、次歌の第千六十七首の「千舟」と数を重ねて対応し、多くの舟が行き交う浦の賑わいを別の尺度で示している。
初句「まそ鏡」は、よく澄んだ鏡の意で、鏡を「見る」ことから「敏馬」にかかる枕詞である。
二句「敏馬の浦は」は、讃える対象の浦の名を示し、「は」で取り立てている。
三句「百舟の」は、たくさんの舟がの意で、長歌の「百舟の泊つる泊り」を受けている。
四句「過ぎて行くべき」は、通り過ぎて行ってよいの意で、「べき」は当然や適当を表す助動詞「べし」の連体形である。
結句「浜ならなくに」は、浜ではないのにの意である。「なくに」は打消の「ず」のク語法に「に」が付いたもので、通り過ぎてしまうことを惜しむ詠嘆を込めて結んでいる。
まそかがみ:よく澄んだ鏡、「見る」などにかかる枕詞
ももふね:たくさんの舟
- 作者
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田辺福麻呂
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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潮干れば葦辺に騒く白鶴の 妻呼ぶ声は宮もとどろに
- 次の歌
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浜清み浦うるはしみ神代より 千舟の泊つる大和太の浜