宇治人の譬への網代我れならば
今は寄らまし木屑来ずとも
- 歌の意味
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宇治の人がたとえに言う網代が、もし私であったならば、今は自分から寄って行くだろうに、木屑が流れて来なくても。
- 鑑賞
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巻第七 雑歌 1137
詞書は前の歌に続き「山背にて作る」
宇治の人々がたとえに言う網代に、もし自分がなれるならば、木屑が寄らなくても自分から寄って行くだろうと詠む一首である。難解な歌で諸説があるが、網代に物が寄り集まることを、人の心が寄り付くことのたとえとしたものと見られる。
山背にて作る歌の一首で、宇治川の網代を恋の譬喩に用いている。作者は未詳である。
初句「宇治人の」は、宇治の人の、の意である。
二句「譬への網代」は、たとえに言う網代、の意。網代には魚や木屑などが寄ることから、人が寄り付くもののたとえとされたと考えられる。
三句「我れならば」は、もし私であったならば、の意である。
四句「今は寄らまし」は、今は寄って行くだろうに、の意。「まし」は反実仮想で、四句切れとなる。
結句「木屑来ずとも」は、木屑が流れて来なくても、の意。倒置で添えた逆接の仮定である。
こつみ:水に浮かんで流れる木の屑
あじろ:竹や木を組んで川に仕掛け、魚を捕る漁具
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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宇治川に生ふる菅藻を川早み 採らず来にけりつとにせましを
- 次の歌
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宇治川を舟渡せをと呼ばへども 聞こえざるらし楫の音もせず