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たらちねの母が手離れかくばかり
すべなきことはいまだせなくに

歌の意味
母の手を離れてから、これほどどうしようもない思いは、まだしたことがないのに。
鑑賞
巻第十一 古今相聞往来歌類之上 2368

詞書「正に心緒を述ぶ」
 母の手もとを離れて成長してから、これほどどうにもならない思いをしたことはまだなかったと、恋の苦しさを訴えた歌である。母に守られていた日々と、恋に心を乱す今とを対比させ、初めて知った恋のやるせなさを率直に言い表している。
 詞書の「正に心緒を述ぶ」は、物にことよせず心の思いをそのまま述べる歌を集めた部立であり、本歌は万葉集巻第十一の短歌の部の最初に置かれている。恋の歌を集めた本巻の冒頭にふさわしく、恋を知る以前と以後との境目を詠んだ一首である。
 作者は未詳であり、左注によれば柿本人麻呂歌集に出る歌である。人麻呂歌集には人麻呂自身の作と、人麻呂が書き留めた他の人々の歌とが含まれるとされる。柿本人麻呂は持統朝から文武朝にかけて活躍した宮廷歌人で、三十六歌仙の一人である。

 初句「たらちねの」は「母」にかかる枕詞である。母を言い起こすことで、守られて育った幼い日々を思わせる働きをしている。
 二句「母が手離れ」は、母の手もとを離れて一人前になったことをいう。恋を知る年頃になったことを示す句である。
 三句「かくばかり」は、これほどまでにの意で、いま味わっている恋の苦しさの大きさを指し示している。
 四句「すべなきことは」は、どうしようもないこと、の意である。係助詞「は」によって、他のことと区別してこの思いを取り立てている。
 結句「いまだせなくに」は、まだしたことがないのに、の意である。「なくに」は打消の助動詞「ず」のク語法に助詞「に」が付いた形で、詠嘆を込めて言い終える働きをしている。

たらちね:母の意。「たらちねの」の形で「母」にかかる枕詞となる
すべ:物事を行う手段、方法
作者
柿本人麻呂歌集
出典
万葉集
前の歌
あしひきの山のあらしは吹かねども 君なき宵はかねて寒しも
次の歌
人の寝る味寐は寝ずてはしきやし 君が目すらを欲りし嘆かむ