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我がゆゑに言はれし妹は高山の
嶺の朝霧過ぎにけむかも

歌の意味
私のせいで人にうわさされたあの子は、高い山の嶺にかかる朝霧が消えるように、消え去ってしまったのだろうか。
鑑賞
巻第十一 古今相聞往来歌類之上 2455

詞書は前の歌に続き「物に寄せて思ひを陳ぶ」
 自分との仲を人にうわさされたあの子は、高い山の嶺の朝霧が消えるように、過ぎ去ってしまったのだろうかと、恋人の身を案じて嘆いた恋の歌である。うわさに苦しんだ恋人への負い目と、その行く末への不安とを、はかなく消える朝霧に託している。
 雲に寄せる歌の一連に続き、本歌は霧に寄せる歌である。「過ぎにけむ」については、恋人がこの世を去ったことをいうとする解と、恋人の思いが離れ去ったことをいうとする解とがある。
 作者は未詳であり、左注によれば柿本人麻呂歌集に出る歌である。人麻呂歌集には人麻呂自身の作と、人麻呂が書き留めた他の人々の歌とが含まれるとされる。柿本人麻呂は持統朝から文武朝にかけて活躍した宮廷歌人で、三十六歌仙の一人である。

 初句「我がゆゑに」は、私のせいで、の意である。「ゆゑ」は理由、原因をいい、恋人が苦しんだのは自分との仲のためだという負い目が込められている。
 二句「言はれし妹は」は、人にうわさされたあの子は、の意である。「言はれ」は受身で、人々に取りざたされたことをいう。過去の助動詞「き」の連体形「し」が付いている。
 三句「高山の」は、高い山の、の意である。四句と合わせて、消えやすい朝霧の景を描き出している。
 四句「嶺の朝霧」は、山の嶺にかかる朝霧をいう。三句とともに、朝霧が消え去ることから結句の「過ぎ」を導く序詞のはたらきをしている。
 結句「過ぎにけむかも」は、過ぎ去ってしまったのだろうか、の意である。「過ぐ」は消え去る意で、人が亡くなる意にも用いる。完了の「ぬ」と過去推量の「けむ」に、疑問と詠嘆の「かも」が付いている。

ゆゑ:理由、原因、ため
すぐ:過ぎ去る、消え失せる。人が亡くなる意にも用いる
作者
柿本人麻呂歌集
出典
万葉集
前の歌
春日山雲居隠りて遠けども 家は思はず君をしぞ思ふ
次の歌
ぬばたまの黒髪山の山菅に 小雨降りしきしくしく思ほゆ