足柄の箱根の山に粟蒔きて
実とはなれるを粟無くもあやし
- 歌の意味
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足柄の箱根の山に粟を蒔いて、実はなったのに、粟がないとは不思議なことだ。
- 鑑賞
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巻第十四 東歌 3364
詞書は前の歌に続き「相聞」
箱根の山に粟を蒔いて実ったのに粟がないと、「粟」に「逢は」を掛けて、二人の仲は実ったはずなのに逢えないことを不思議がる歌である。農作業の言葉を借りた洒落が、民謡らしい軽みを生んでいる。
左注に或本の歌の末句として「延ふ葛の引かば寄り来ね下なほなほに」を記す。相模国歌の一首である。
作者は未詳である。東歌は東国の人々の間でうたわれた歌とされ、方言をまじえた素朴でおおらかな表現が特色である。
初句「足柄の」は相模国の足柄で、第三千三百六十一首に続いて足柄の地名が詠まれる。
二句「箱根の山に」は足柄の箱根山をいう。本巻の第三千三百七十首にも「箱根の嶺ろ」が詠まれる。
三句「粟蒔きて」は山の焼畑に粟を蒔くことで、山国の暮らしの景である。
四句「実とはなれるを」の「実」は粟の実と、恋が実ることを重ねる。「を」は逆接である。
結句「粟無くもあやし」の「粟無く」に「逢はなく」を掛け、逢えないことをいう掛詞である。「あやし」は不思議だの意である。字余りの結句である。
あはなく:「粟無く」に「逢はなく」を掛ける
- 出典
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万葉集
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我が背子を大和へ遣りて待つしだす 足柄山の杉の木の間か
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鎌倉の見越しの崎の岩崩えの 君が悔ゆべき心は持たじ