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遠き山関も越え来ぬ今さらに
逢ふべきよしのなきが寂しさ

歌の意味
遠い山も関所も越えて来てしまった。今となっては、逢う手立てもないのが寂しい。
鑑賞
巻第十五 中臣宅守狭野弟上娘子贈答歌 3734

詞書は前の歌に続き「中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子と贈答する歌」
 遠い山も関所も越えて配流の地に来てしまい、今となっては逢う手立てもないのが寂しいと詠んだ歌である。越えてきた山と関所が、都と自分とを隔てる越えがたい障壁として意識されている。関は越前国の愛発の関を指すと考えられる。本文の結句には「一云 さびしさ」との注記があり、「さぶしさ」を「さびしさ」とする異伝を示している。注記は歌の本文から除き、ここでは本文の読みに従う。
 作者の中臣宅守は中臣東人の子で、神祇を司る中臣氏の出である。罪を得て越前国に配流されたが、のちに赦されて都に戻った。
 左注に「右十四首中臣朝臣宅守」とあり、本巻の第三千七百三十一首から第三千七百四十四首までの十四首は、配流の地にあって宅守が娘子に贈った歌である。本巻の後半には、中臣宅守と狭野弟上娘子とが交わした贈答歌六十三首が収められている。巻の目録によれば、宅守が蔵部の女嬬であった娘子を娶った時に、勅によって越前国に配流されたという。配流の地は越前国の味真野、現在の福井県越前市付近とされる。

 初句「遠き山」 都から遠く離れた山々で、越前へ向かう道の山を指す。
 二句「関も越え来ぬ」 「関」は関所のことで、越前国の愛発の関とされる。「ぬ」は完了で、関所も越えて来てしまったの意。ここで切れる二句切れである。
 三句「今さらに」 今となってはの意である。
 四句「逢ふべきよしの」 「よし」は手段、方法のことで、逢うことのできる手立てのの意である。
 結句「なきが寂しさ」 「寂しさ」は「さぶしさ」と読み、寂しいことの意。体言止めで結ぶ。異伝では「さびしさ」とある。

せき:関所、ここでは越前国の愛発の関とされる
よし:手段、方法
作者
中臣宅守
出典
万葉集
前の歌
我妹子が形見の衣なかりせば 何物もてか命継がまし
次の歌
思はずもまことあり得むやさ寝る夜の 夢にも妹が見えざらなくに