神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り
見れども飽かずいかに我れせむ
- 歌の意味
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神々しい垂姫の崎を漕ぎめぐり、いくら見ても見飽きることがない。私はどうしたらよいのだろう。
- 鑑賞
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巻第十八 4046
詞書「水海に至りて遊覧する時に、各懐を述べて作る歌」
神々しい垂姫の崎を舟で漕ぎめぐり、見ても見ても飽きない、どうしたらよいのかと詠む。前日に「いかにある布勢の浦ぞも」と問いかけた福麻呂が、実際に布勢の水海を見て、その美しさに心を奪われたことを率直に述べている。
作者の田辺福麻呂は造酒司の令史で、左大臣橘諸兄の使いとして越中を訪れた。宮廷を讃える長歌を得意とした万葉集後期の歌人である。
「見れども飽かず」は、柿本人麻呂の吉野讃歌などにも見られる土地讃めの決まった言い方で、宮廷歌人の福麻呂がその型を用いて布勢の水海をたたえている。
初句「神さぶる」神々しく見える、古びておごそかであるの意。土地の霊威をたたえる言葉である。
二句「垂姫の崎」布勢の水海にあった岬で、現在の氷見市にある。続く本巻の第四千四十七首、本巻の第四千四十八首も垂姫を詠み、三首が同じ地名でつながっている。
三句「漕ぎ廻り」舟で岬のまわりを漕ぎめぐる。家持の第四千三十七首の「漕ぎた廻り」と同じ遊覧の姿が、前日の予想どおりに実現している。
四句「見れども飽かず」いくら見ても飽きないの意。家持が本巻の第四千三十七首で「見とも飽くべき浦にあらなくに」と語った言葉を、実際に見た客が裏付ける形になっている。ここで四句切れとなる。
結句「いかに我れせむ」どうしたらよいのかと、感動のあまり途方に暮れるさまを表す。本巻の第四千三十六首の「いかにある」という問いが、ここで感嘆の「いかに」に転じている。
かむさぶ:神々しく見える。古びておごそかである
- 作者
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田辺福麻呂
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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沖辺より満ち来る潮のいや増しに 我が思ふ君が御船かもかれ
- 次の歌
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垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は 楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ