我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥
いやなつかしく聞けど飽き足らず
- 歌の意味
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我が家の門のあたりを鳴きながら過ぎて行くほととぎすの声は、いよいよ心ひかれ、いくら聞いても満ち足りない。
- 鑑賞
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巻第十九 4176
詞書は前の歌に続き「霍公鳥を詠む二首」
我が家の門の上を鳴きながら過ぎていくほととぎすの声に、ますます心ひかれ、いくら聞いても飽き足りないと詠んだ歌である。過ぎ去っていく声への名残惜しさが、聞き飽きない思いを一層強めている。
原文には「毛能波氐尓乎の六箇の辞を闕く」という原注があり、助詞「も」「の」「は」「て」「に」「を」の六つを用いずに詠んでいる。前歌の三つからさらに制約を増やした言葉遊びで、二首が対になっている。
作者の大伴家持は、大納言大伴旅人の子で、天平十八年(746)から越中守として越中国府(現在の富山県高岡市伏木)に赴任していた。万葉集の編纂に深く関わったとされる奈良時代を代表する歌人である。
初句「我が門ゆ」の「ゆ」は経由を表す格助詞で、我が家の門のあたりを通っての意である。
二句「鳴き過ぎ渡る」は、鳴きながら通り過ぎていくさまで、声が遠ざかっていく動きを表している。
三句「霍公鳥」は、前歌の初句と同じ鳥の名を中央に置いている。
四句「いやなつかしく」の「いや」はますます、「なつかし」は心ひかれる意で、過ぎ去る声への愛着を表している。
結句「聞けど飽き足らず」は、聞いても満ち足りないの意で、前歌の「離るる日あらめや」に続いて、ほととぎすへの尽きない愛着を示して結んでいる。
かど:家の門、門前
- 作者
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大伴家持
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさ かづらくまでに離るる日あらめや
- 次の歌
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我れのみし聞けば寂しも霍公鳥 丹生の山辺にい行き鳴かにも