我れのみし聞けば寂しも霍公鳥
丹生の山辺にい行き鳴かにも
- 歌の意味
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私ひとりだけで聞いていると寂しい。ほととぎすよ、丹生の山辺へ飛んで行って鳴いてくれないか。
- 鑑賞
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巻第十九 4178
詞書は前の歌に続き「四月三日、越前判官大伴宿祢池主に贈る霍公鳥の歌、旧きを感ずる意に勝へずして懐を述ぶる一首并せて短歌」
越前にいる大伴池主に贈った長歌の反歌一首目で、ほととぎすの声を自分ひとりで聞くのは寂しいので、池主のいる丹生の山辺へ行って鳴いてほしいと詠んでいる。かつて越中で池主とともにほととぎすを聞いた日々を懐かしむ心が込められている。
大伴池主は家持の同族で、かつて越中掾として家持の下に仕え、ともに多くの歌を交わした親友であったが、このころは越前の掾(判官)に転じていた。丹生は越前国の丹生郡のあたりで、池主のいる越前国府に近い山辺を指している。
作者の大伴家持は、大納言大伴旅人の子で、天平十八年(746)から越中守として越中国府(現在の富山県高岡市伏木)に赴任していた。万葉集の編纂に深く関わったとされる奈良時代を代表する歌人である。
初句「我れのみし」の「し」は強意で、自分ひとりだけでと孤独を強調している。
二句「聞けば寂しも」の「も」は詠嘆で、聞くとかえって寂しいと述べ、ここで切れる二句切れとなっている。長歌の「独りのみ聞けば寂しも」を受けた表現である。
三句「霍公鳥」は呼びかけで、ほととぎすに向かって願いを託す転換点となっている。
四句「丹生の山辺に」は、池主のいる越前の地を示し、遠く離れた友のもとを指している。
結句「い行き鳴かにも」の「い」は接頭語、「にも」は他者への願望を表し、行って鳴いてほしいと願って結んでいる。
いゆく:行く
にふ:越前国丹生郡のあたり
- 作者
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大伴家持
- 出典
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万葉集
- 前の歌
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我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥 いやなつかしく聞けど飽き足らず
- 次の歌
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霍公鳥夜鳴きをしつつ我が背子を 安寐な寝しめゆめ心あれ