流れては行く方もなし涙川
我が身のうらや限りなるらむ
- 歌の意味
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流れ流れても行き着く先もない涙川よ。我が身という浦が、その果てなのだろうか。
- 鑑賞
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巻第十 恋歌二 642
詞書「題しらず」
流れても行き着く先のない涙川は、我が身という浦が果てなのだろうか、と詠んだ歌である。どこにも行き場のない恋の涙が、結局は我が身ひとつに帰ってくる嘆きを表している。
本巻の第六百十八首の伊勢の歌も「我が身のうら」と詠み、恨みが我が身に向かう嘆きを共有している。
作者の藤原千兼は、平安時代中期の人物で、経歴は詳しく伝わらない。
初句「流れては」は、流れていっても、の意である。
二句「行く方もなし」は、行き着く先もない、の意で、ここで句切れとなる。
三句「涙川」は、流れる涙を川にたとえた語である。本巻の第六百十首から第六百十二首、第六百五十六首、第六百五十七首にも詠まれている。
四句「我が身のうらや」の「うら」は、川の流れ着く「浦」と、心や身の上の意を掛けた掛詞である。「や」は疑問の係助詞で、本巻の第六百十八首の四句、結句「我が身のうらは」と響き合っている。
結句「限りなるらむ」は、果てなのだろうか、の意で、四句の「や」を受けて連体形「らむ」で結ぶ係り結びとなっている。
なみだがは:流れる涙を川にたとえた語
うら:「浦」の意と、心や身の上の意を掛ける
- 作者
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藤原千兼
- 出典
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後撰和歌集
- 前の歌
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現にぞ問ふべかりける夢とのみ 迷ひしほどや遥けかりけん
- 次の歌
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我が恋の数にし取らば白妙の 浜の真砂も尽きぬべらなり