数ならぬ身に置く宵の白玉は
光見えさすものにぞありける
- 歌の意味
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取るに足りない我が身に置く宵の白玉、つまり涙の露は、光をちらりと見せただけで途絶えてしまうものであったことよ。
- 鑑賞
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巻第十六 雑歌二 1169
詞書「陽成院の帝、時々宿直にさぶらはせたまうけるを、久しう召しなかりければ奉りける」
取るに足りない身に置く宵の白玉は、光をわずかに見せて途絶えるものだった、と詠んだ歌である。時折召された帝の寵愛を宵に置く露の玉の光にたとえ、その光が途絶えてしまった今、袖に置くのは涙ばかりだと、久しく召されない嘆きを訴えている。
詞書によれば、陽成院が時々宿直に召していたのに、長く召さなくなったので奉った歌である。
作者の武蔵は、陽成院に仕えた女房とみられるが、詳しい伝は未詳である。
初句「数ならぬ」は、取るに足りない、の意で、本巻の第千百六十七首の初句と同じ語で始まっている。
二句「身に置く宵の」は、我が身に置く宵の、の意で、「置く」は露の縁語である。
三句「白玉は」は、白い玉は、の意で、露の玉に涙を重ねている。
四句「光見えさす」は、光をちらりと見せて途中でやめる、の意で、「さす」は動作を途中でやめる意を添える。帝の寵愛がひととき及んで途絶えたことをいう。
結句「ものにぞありける」は、ものであったことよ、の意で、「ぞ」は強意の係助詞で、連体形「ける」で結ぶ係り結びとなっている。
しらたま:白く美しい玉。露や涙をたとえる
とのゐ:宮中に宿泊して奉仕すること。宿直
みえさす:ちらりと見せて途中でやめる
- 作者
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武蔵
- 出典
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