- 歌の意味
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大淀の禊は、もう幾世を経たのだろうか。すっかり神々しく古びている、浦の姫松よ。
- 鑑賞
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巻第十 神楽歌 594
詞書「恒徳公家障子」
大淀の浦で行われる禊は幾世を経たのだろうか、浦の姫松もすっかり神々しく古びていると詠む歌である。詞書から、恒徳公藤原為光の家の障子絵に添えた歌とわかる。斎宮が禊をした伊勢の大淀の浦の松を描き、その松の古びたさまに禊の歴史の長さを感じ取っている。前の第五百九十一首までの社の松に続き、神事の場の松を詠んでいる。
作者の源兼澄は、平安中期の官人、歌人である。恒徳公は藤原為光で、藤原師輔の子であり、太政大臣に至った。
初句「大淀の」は、伊勢国の大淀の、の意で、斎宮が禊をした浦である。
二句「禊幾世に」は、禊は幾世に、の意である。次の第五百九十五首の初句「禊する」と、禊の語を共有している。
三句「なりぬらん」は、なったのだろうか、の意で、「ぬ」は完了、「らん」は推量の助動詞である。ここで句切れとなる三句切れの歌である。
四句「神さびにたる」は、すっかり神々しく古びている、の意で、「神さぶ」は神々しく古びる意である。
結句「浦の姫松」は、浦の小さな松、の意で、体言止めである。
みそぎ:禊。水で身を清める神事
かみさぶ:神さぶ。神々しく古びる
ひめまつ:姫松。小さな松。松の美称
- 作者
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源兼澄
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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祈ぎかくる日吉の社の木綿襷 草のかき葉も言止めて聞け
- 次の歌
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禊する今日唐崎におろす網は 神のうけひくしるしなりけり