雨ならでもる人もなき我が宿を
浅茅が原と見るぞ悲しき
- 歌の意味
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雨のほかには漏れ入るものもなく、守ってくれる人もいない我が家を、浅茅の生い茂る野原のように見るのは悲しいことだ。
- 鑑賞
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巻第十八 雑賀 1204
詞書「東三条にまかり出でて、雨の降りける日」
雨のほかには漏れ入るものもなく、守ってくれる人もいない我が家を、浅茅の生い茂る野原のように見るのは悲しいと詠む歌である。詞書から、宮中を退出して東三条の邸に下がっていた折の、雨の降る日の歌とわかる。「漏る」と「守る」を掛け、帝の訪れもなく荒れていく住まいのわびしさを、雨の漏る家と浅茅が原の景に重ねて嘆いている。前歌の第千二百三首の人も通わない宿に続き、訪れのない住まいを詠む歌である。
作者の「承香殿女御」は、宮中の承香殿を局とした女御をいう呼称である。誰を指すかについて定説を見ない。
初句「雨ならで」は、雨でなくては、の意で、「で」は打消の接続助詞である。
二句「もる人もなき」は、「もる」が雨が「漏る」と家を「守る」を掛ける掛詞である。漏れ入るものもない、守る人もいない、の二つの意を重ねている。次歌の第千二百五首の四句「宿もる雨に」も、同じく「漏る」と「守る」を掛けている。
三句「我が宿を」は、私の家を、の意で、前歌の第千二百三首の結句「我が宿の道」と、「我が宿」の語を共有している。
四句「浅茅が原と」は、丈の低い茅が生い茂る荒れた野原と、の意で、荒れ果てた住まいをたとえている。
結句「見るぞ悲しき」は、見るのは悲しい、の意で、係助詞「ぞ」を受けて形容詞「悲し」の連体形「悲しき」で結ぶ係り結びである。
もる:雨が「漏る」意と、家を「守る」意を掛ける
あさぢがはら:浅茅が原。丈の低い茅が生い茂る荒れた野原
- 作者
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承香殿女御
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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いかでかは尋ね来つらん蓬生の 人も通はぬ我が宿の道
- 次の歌
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いにしへは誰が古里ぞおぼつかな 宿もる雨に問ひて知らばや