ここにだにつれづれになく郭公
ましてこごひの森はいかにぞ
- 歌の意味
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ここでさえ、ほととぎすがもの寂しげに鳴いている。まして子を恋うという名の子恋の森では、どれほどでしょうか。
- 鑑賞
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巻第二十 哀傷 1282
詞書「右兵衛佐のぶかた、まかり隠れにけるに、親のもとに遣はしける」
ここでさえほととぎすがもの寂しげに鳴いている、まして子恋の森ではどれほどかと詠む歌である。詞書から、右兵衛佐のぶかたが亡くなった時に、その親のもとに送った歌とわかる。ほととぎすの「鳴く」に人の「泣く」を重ね、他人の自分でさえ悲しいのだから、子を恋う親の嘆きはどれほどかと、歌枕の子恋の森の名に託して思いやっている。
作者の「右大臣」は、誰を指すかについて定説を見ない。右大臣は太政官で左大臣に次ぐ地位である。詞書の右兵衛佐のぶかたも、誰を指すかは明らかでない。
初句「ここにだに」は、ここでさえ、の意で、「だに」は軽いものを挙げて重いものを類推させる副助詞である。四句の「まして」と呼応している。
二句「つれづれになく」は、「なく」がほととぎすの「鳴く」と、人の「泣く」を掛ける掛詞である。もの寂しげに、の意である。
三句「郭公」は、ほととぎす、の意で、死出の山を越えて来る鳥ともされる。ここで句切れとなる三句切れの歌である。
四句「ましてこごひの」は、「こごひ」が歌枕の「子恋の森」と、子を「恋ひ」を掛ける掛詞である。本巻の第千三百三首の二句「こごひの森の」と、同じ歌枕を詠んでいる。
結句「森はいかにぞ」は、森ではどうであろうか、の意で、親の嘆きの深さを思いやっている。
なく:ほととぎすが「鳴く」意と、人が「泣く」意を掛ける
こごひ:歌枕の「子恋の森」と、子を「恋ひ」を掛ける
つれづれ:もの寂しく所在ないさま
- 作者
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右大臣
- 出典
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拾遺和歌集
- 前の歌
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しのべとやあやめも知らぬ心にも 長からぬ世のうきに植ゑけん
- 次の歌
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朝顔を何はかなしと思ひけん 人をも花はさこそ見るらめ