玉くしげ箱のうらなみたゝぬ日は
海をかゞみとたれか見ざらむ
- 歌の意味
-
玉くしげの箱という名の箱の浦に波の立たない日は、海を鏡と誰が見ないだろうか、誰もが鏡と見るだろう。
- 鑑賞
-
二月一日、朝のうちは雨が降ったが、昼ごろにやんだので、和泉の灘という所から出て漕いで行った。海の上は前日と同じく風も波も見えない。黒崎の松原を通って行くと、地名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪のように白く、貝の色は蘇枋色で、五色にあと一色足りないほどであった。この日は箱の浦という所から、綱手を引いて船を進めた。
この日に歌を詠むのは「ある人」と「船君」である。「船君」は船の主人の意で、任期を終えた前の土佐守、紀貫之を指す。
箱の浦から綱手を引いて進む途中、穏やかな海を見て、ある人が詠んだのがこの歌である。
続けて船君が、この月まで旅が長引いてしまったことを嘆き、苦しさに堪えかねて「ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり」と詠んだ。
初句「玉くしげ」は「箱」にかかる枕詞で、「くしげ」は櫛などを入れる箱のこと。第二句「箱のうらなみ」は、地名の箱の浦と、その浦の波をいう。第三句「たゝぬ日は」は、波の立たない日は、の意。
第四句「海をかゞみと」は、海を鏡と、で、結句「たれか見ざらむ」は、誰が見ないことがあろうか、いや誰もが見るだろう、という反語で結ぶ。「か」は反語の係助詞、「む」は推量の助動詞である。
枕詞の「玉くしげ」から「箱」を導き、箱に収める鏡と結びつけた縁語の技巧が用いられている。波の立たない穏やかな海面を鏡に見立て、箱の浦という地名を生かした機知の歌である。
くしげ:櫛などの化粧道具を入れる箱
綱手(つなで):船を岸から引くための綱
蘇枋(すはう):黒みがかった赤色
- 作者
-
紀貫之
- 出典
-
土佐日記
- 前の歌
-
年ごろをすみし所の名にしおへば きよる浪をもあはれとぞ見る
- 次の歌
-
ひく船の綱手のながき春の日を よそかいかまでわれはへにけり