うまれしもかへらぬものを我がやどに
小松のあるを見るがかなしさ
- 歌の意味
-
この家で生まれた子も帰って来ないのに、わが家に新しく小松が生えているのを見るのは悲しいことだ。
- 鑑賞
-
二月十六日、夕方ごろ京へのぼるついでに見ると、山崎の小櫃の絵も、まがりの大路の形も昔と変わっていなかった。島坂では人がもてなしをしてくれた。夜になってから京に入ろうと思い、急がずにいるうちに月が出た。一行は月の明るい中を桂川を渡った。人々は「この川は飛鳥川ではないので、淵も瀬もまったく変わっていない」と言い合った。夜が更けてから京に入り、家に着いて門を入ると、月が明るいので様子がよく見えた。家は聞いていた以上に、言いようもなく壊れ荒れていた。
桂川は京の西を流れる川で、山崎から京へ入るときに渡る川である。「飛鳥川」は、古今和歌集の「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」によって、移り変わりの激しいものの代表とされていた川である。家を預けていたのは、中垣があるだけで一つの家のような隣家の人で、自分から望んで預かっており、留守の間も折々に物を与えていた。
家の中には池のようにくぼんで水がたまった所があり、ほとりには松もあった。五、六年のうちに千年も過ぎたのか、その松は片側の枝がなくなっており、新しく生えた小松がまじっていた。人々は荒れた様子に「あはれ」と言い合う。思い出さないことはなく恋しい思いがつのる中で、この家で生まれた女の子が一緒に帰らなかったことは、どれほど悲しいことか。一緒に船に乗っていた人々は皆、子どもたちが群がって騒いでいる。こうした中で悲しみに堪えきれず、ひそかに心を知る人と詠み交わしたのがこの歌である。
それでも満ち足りなかったのか、続けて「見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや」と詠んだ。日記は、忘れがたく残念なことは多いが書き尽くせない、ともかく早く破り捨ててしまおう、と結ばれている。
初句「うまれしも」は、この家で生まれた子も、の意で、「し」は過去の助動詞「き」の連体形である。第二句「かへらぬものを」は、帰らないのに、で、「ものを」は逆接の接続助詞。第三句「我がやどに」は、わが家に、と続く。
第四句「小松のあるを」は、新しく生えた小松があるのを、の意。結句「見るがかなしさ」は、見ることの悲しさよ、と体言止めで結んでいる。
留守の間に新たに生えて育っている小松と、この家で生まれながら帰ることのなかった娘とを対比している。新しい命が芽生える小松の姿が、かえって失われた娘の命を痛切に思い起こさせる構図である。旅の間に繰り返されてきた亡き子への哀悼が、帰宅したこの場面で頂点に達している。
やど:家。住まい
- 作者
-
紀貫之
- 出典
-
土佐日記
- 前の歌
-
桂川わがこゝろにもかよはねど おなじふかさはながるべらなり
- 次の歌
-
見し人の松のちとせにみましかば とほくかなしきわかれせましや