人はいさ我が身は末になりぬれば
またあふさかをいかが待つべき
- 歌の意味
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あなたはどうだかわからないが、私の身は老い先が短くなってしまったので、再び逢坂で逢う日を、どうして待つことができようか。
- 鑑賞
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巻第六 別歌 346
旅立つあなたはどうかわからないが、自分はもう老い先が短くなったので、再び逢坂の関で迎えて逢う日をどうして待つことができようか、と詠む歌である。旅立つ人の帰りを迎える日まで、自分が生きていられるかわからないという老いの嘆きを込めている。
伝本の中には、作者を藤原実綱とし、「為仲朝臣陸奥守にて下りける時、人々餞しはべりけるによめる」の詞書を持つものがある。陸奥守となった橘為仲が任国へ下る際の送別の宴で詠んだ歌ということになる。逢坂の関は東国へ向かう人が都を離れる関所であった。
本巻の第三百四十三首も、待ち迎えることができないかもしれない我が身を嘆いており、本歌と対応している。
初句「人はいさ」は人はさあどうだかの意で、相手のことはわからないとして、自分の身に話を移している。
二句「我が身は末に」は我が身は老い先に近づいての意で、「末」は人生の終わりが近いことをいう。本巻の第三百四十三首の二句「我が身なりせば」にも「我が身」が詠まれている。
三句「なりぬれば」はなってしまったのでの意で、已然形に「ば」を付けた確定条件である。
四句「またあふさかを」の「あふさか」は、再び逢う意の「逢ふ」と、逢坂の関とを掛けており、平仮名のままとした。巻末の第三百四十九首の詞書とされる逢坂の関とも響き合っている。
結句「いかが待つべき」はどうして待つことができようかの意で、反語を表している。本巻の第三百四十三首の初句「待ちつけむ」と同じく待つことを詠んでいる。
すゑ:晩年、老い先
あふさか:「逢ふ」意と、山城と近江の境にある「逢坂の関」を掛ける
- 出典
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金葉和歌集
- 前の歌
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秋霧のたち別れぬる君により 晴れぬ思ひに惑ひぬるかな
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恋しさはその人数にあらずとも 都を偲ぶうちに入れなむ