宇治川の底の水屑となりながら
なほ雲かかる山ぞ恋しき
- 歌の意味
-
宇治川の底に沈む水屑のような身となりながらも、やはり雲のかかる山が恋しく思われる。
- 鑑賞
-
巻第九 雑歌上 590
宇治川の底に沈む水屑のようにはかない身となっていながら、それでもなお雲のかかる山が恋しく思われる、と詠む歌である。落ちぶれて川底の水屑のような身となりながら、なお高い雲のかかる山を恋い慕う心を、川底と山の高みとの対比によって表している。
「雲かかる山」は、宮中や高貴な人のもと、あるいは修行の山などをたとえるとみられる。本巻では「雲」が宮中を表す語として繰り返し用いられている。
初句「宇治川の」は、山城国の宇治川のの意で、流れの速い川として知られる。
二句「底の水屑と」は、川底に沈む水屑との意で、はかなく落ちぶれた身をたとえている。
三句「なりながら」は、なっていながらの意で、逆接の接続助詞「ながら」が用いられている。
四句「なほ雲かかる」は、それでもなお雲のかかるの意で、二句の「底」と対比して高い山を表している。
結句「山ぞ恋しき」は、山が恋しいの意で、係助詞「ぞ」を受けて形容詞の連体形「恋しき」で結ぶ係り結びとなっている。
みくづ:水中のごみ、水屑。はかない身のたとえ
- 出典
-
金葉和歌集
- 前の歌
-
千年まですまむ泉の底によも 影を並べむと思ひしもせじ
- 次の歌
-
住みわびて我さへ軒の忍ぶ草 しのぶかたがた繁き宿かな