- 歌の意味
-
昔会ったこの家の主人のような顔をして咲いている梅の枝の花よ、せめておまえだけでも、私に昔の話をしておくれ。
- 鑑賞
-
巻第十 雑歌下 604
昔会った家の主人はもういないが、梅の枝の花はその主人のような顔をして咲いている、せめてその花だけでも私に昔のことを語ってほしい、と詠む歌である。主を失った家に変わらず咲く梅に呼びかけ、亡き人を偲ぶ思いを表している。
本歌は巻第十雑歌下の巻頭歌であり、本巻はこの歌から亡き人を悼む哀傷の歌が続く。巻第九の巻頭の第五百十六首も、昔見た梅の花に寄せて過ぎた歳月を詠んでおり、雑歌の上下の巻がともに「昔見し」梅の歌で始まっている。また本巻の巻末の第六百六十五首は、作者と並び称された源俊頼が、長く世に埋もれた我が身を嘆く歌で、「昔」を語れと願う巻頭に対し、巻末は「久しく」埋もれた歳月の嘆きで結ばれている。
作者の「基俊」は、右大臣藤原俊家の子で、藤原道長の曾孫にあたる藤原基俊である。官位は従五位上左衛門佐にとどまったが、源俊頼と並ぶ院政期歌壇の重鎮で、藤原俊成の師としても知られる。小倉百人一首にも歌が採られている。
初句「昔見し」は、昔会ったの意で、過去の「き」の連体形「し」が、二句の「主」にかかる。巻第九の第五百十六首の二句「昔我が見し」と通じている。
二句「主顔にも」は、主人のような顔をしての意で、家の主のようにふるまって咲く梅の様子をいう。主はすでにこの世になく、花だけが主の顔をしている。
三句「梅が枝の」は、梅の枝のの意である。
四句「花だに我に」は、せめて花だけでも私にの意で、副助詞「だに」が、人がいない今はせめて花だけでもという願いを表している。
結句「物語せよ」は、話をしておくれの意で、命令形で花に呼びかけて結んでいる。花を人に見立てる擬人法である。
あるじがほ:主人らしい顔つき、主人のようにふるまうさま
うめがえ:梅の枝
ものがたり:話をすること。ここでは昔の話
- 作者
-
藤原基俊
- 出典
-
金葉和歌集
- 前の歌
-
何か思ふ春の嵐に雲晴れて さやけき影は君のみぞ見む
- 次の歌
-
根に帰る花の姿の恋しくは ただ木のもとを形見とは見よ