七十にみちぬる潮の浜久木
久しく世にも埋もれぬるかな
- 歌の意味
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七十歳に満ちた私は、満ちてくる潮に埋もれる浜久木のように、長いあいだ世に埋もれてしまったことだ。
- 鑑賞
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巻第十 雑歌下 665
七十歳になった我が身は、満ちてくる潮に埋もれる浜辺の久木のように、長いあいだ世の中に埋もれたままであった、と詠む歌である。本集の撰者である作者が、高い位にのぼることなく老いを迎えた我が身の不遇を嘆いている。
本歌は巻第十雑歌下の巻末歌であり、本集全体を締めくくる歌でもある。本巻の巻頭の第六百四首は、作者と並び称された藤原基俊が昔を語れと梅に呼びかける歌であり、巻頭が「昔」を求め、巻末が「久しく」埋もれた歳月を嘆く構成となっている。また本巻の第六百二十首の「埋もれぬ名」と対照をなし、巻第九の巻末近くの第六百二首でも、作者は自らが雲に隠れていると不遇を嘆いている。
作者の「俊頼」は、大納言源経信の子で、木工頭となった源俊頼である。本集の撰者で、家集に『散木奇歌集』がある。小倉百人一首にも歌が採られている。
初句「七十に」は、七十歳にの意である。
二句「みちぬる潮の」は、満ちた潮のの意で、年齢が七十に「満ちる」意と、潮が「満ちる」意を掛けている。完了の「ぬ」の連体形が用いられている。
三句「浜久木」は、浜辺に生える久木の意で、二句とともに、同音の繰り返しによって四句の「久しく」を導く序詞となっている。潮に埋もれる浜久木に、世に埋もれた我が身を重ねている。
四句「久しく世にも」は、長いあいだ世の中にもの意で、三句の「浜久木」の「久木」を受けている。
結句「埋もれぬるかな」は、埋もれてしまったことだの意で、完了の「ぬ」の連体形に終助詞「かな」が付いて結んでいる。本巻の第六百二十首の四句「埋もれぬ名」と対照をなしている。「潮」「浜」「埋もれ」が縁語となっている。
ななそぢ:七十歳
みつ:年齢が満ちる意と、潮が満ちる意を掛ける
はまひさぎ:浜辺に生える久木。ここでは「久しく」を導く
- 作者
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源俊頼
- 出典
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金葉和歌集
- 前の歌
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阿弥陀仏と唱ふる声を楫にてや 苦しき海を漕ぎ離るらむ
- 次の歌
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春霞たち隠せども姫小松 ひくまの野辺に我は来にけり